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〈15〉聖餐式について
キリスト教案内
  ★洗礼と聖餐式は主イエスがキリスト教会にお与えになったただ二つだけの礼典です。礼典とはキリストが制定された恵みの契約の印証(しるし)です。恵みの契約とは救い主イエス・キリストを信じる者にただで罪の赦しと永遠の命を与えるという神が人と結ばれた契約です。
 ★聖餐式は主イエスが十字架にかかる前夜弟子たちと共にした晩餐の席で制定されました。
 「
イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『取って食べよ、これは私のからだである』。また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、『みな、この杯から飲め。これは、罪の赦しを得させるようにと、多くの人のために流す私の契約の血である』。」(マタイ26:26〜28)
 ★
「みな、この杯から飲め」と主がすべての信徒にお与えになった杯を受ける権利をカトリック教会は奪って聖職者が独占しています。また、カトリックは主が「これは私のからだである。」と言われた言葉を根拠に、祭壇で聖職者が捧げるパンがキリストのからだに変化するという「化体説」を唱えています。しかも、キリストが一度限りで成し遂げられた贖罪のみ業(ヘブル9:11,12)を聖職者が祭壇で繰り返し行っているのだと主張しています。
 ★聖餐式は、カトリックが主張するようにイエスの贖罪のみ業の再現ではなく、すでに一度限り十字架上で完了したあがないの恵みを信徒が自分のものとして再確認し、確信を深めてゆくための手段です。
 聖書が「十字架のことば」
(1コリント1:18)と言う時、これは福音(よい知らせ)を指します。十字架だけでなく復活、昇天、聖霊降臨などすべての主のみ業を総称しています。「パンさき」(使徒20:7)は聖餐式のことで「パン」の一言で「パンとブドー酒」を代表させています。
 ですから、聖餐式で「主の死を告げ知らせる」
(1コリント11:26)と聖書が言っているからといって、聖餐式の時、主の復活を忘れて主の十字架の死だけを思って沈痛な面持ちで静まりかえっていなければならない、というものではありません。今でも、別のメシヤを待望しているユダヤ教徒が過ぎ越しの祭りを喜んで祝っていると聞きます。その過ぎ越しの祭りの本体であるキリストの十字架を覚える聖餐式を私達は大いに喜んで祝うべきです。
 ★私達は聖餐式において、まず主の死に合体して私達は生来の罪の古い自分に死ぬのです。次に主の復活に合体してキリストの形に似せられた「新しい人」によみがえるのです
(ローマ6:3〜11)。そして、主が天から降り注いで下さる聖霊のバプテスマを受けて強められ、主の証人として世に出て行くのです(使徒1:8)。エマオの途上で復活の主に出会いながらその方が主であることが分からなかった弟子たちは、目的地に着いて家で主と食事を共にした時、彼らの目が開けて目の前のお方が主であると悟ったのです。聖餐式は私達の霊の目が開かれ、パンとブドー酒によって霊的に主に触れる時でもあるのです(ルカ24:30,31)


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キリスト紀元2003年 6月 1日公開


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