お金で勉強させようっていう算段は親としてどうかな
なかなか勉強しようとしない子どもに「100点とったらお小遣いあげるから、勉強を頑張りなさい」と言いたくなる親はいるかもしれない。
もっとも、我が家の子どもは、そんな言葉が役立つほど小さくない。おまけに、とても「100点」などとは言えない成績だった。それでも、かつてそういう言い方をしたくなったことは、ないことはない。
子どもたちは自分が取ってくるテストの点が良いか悪いかはよく知っている。良い点を取ってきた方が、親が喜ぶことも知っている。だから、良い点を取って良い子になれない子どもは、それだけで引け目を感じているに違いないと思うのだ。
テストや成績で一喜一憂することが子どもたちの心を貧しくしたり、自己価値観を失わせたりして、結果的に自分を大切にできない子どもに育ててしまうことにならないか、という心配は決して杞憂ではあるまい。
もちろん、お金をえさに勉強していい点をとりなさい、などという言い方に抵抗を感じる親の方が多いだろう。学習は自分の人間としての能力を高めるためにするもので、良い点を取って、そのことでお金を稼ぐためにするものではないことは自明だから。もし、本気でこんな言い方をして、子どもに勉強を押し付けようとする親がいたとすれば、なんという親だといわれるに違いない。
しかし、この「子ども」を「私たち」に置き換えてみると、どうだろうか。「給料上げてあげるから頑張りなさい」「ボーナスたくさん欲しくないの?」なんていう声が、だんだん大きくなりつつあるのではないか。そう、いわゆる成績主義だ。
もっとお金が欲しければしっかり働けと、そういうことだろう。こうした考えが公務員制度改革の中でも中心的な柱、発想になっていることは否定できまい。
すでに成績主義賃金制度が導入された企業で、意図的に個人目標を低く設定したり、職場の仲間同士が仕事を教えあわなくなり、仕事の技術の伝承すら難しくなるということが報告されている。
お金を目の前にぶら下げれば働くだろう、という人間観は、他人は知らない、自分だけが頑張ればいい、自分が良くなればいいという人間観に他ならない。先の企業の話は当然の帰結と言うべきだ。
お金のために頑張るという人間観は、自治体労働者の資質や、持つべき人間観とは相容れないと思うのだが、どうだろうか。
そんな足を引っ張り合うような貧相な動機ではなく、仲間とともに職場の中で育ちあい、支えあいながら、市民のために仕事をしていきたいと思う。そのためにこそ、職場に労働組合を作っているのだということを再確認したい。当局には冒頭の親のように「成績が上がったら給料上げてあげるよ」とは言って欲しくないと思うのだ。
(2003.6.8)
