住みたくなる街岡山は米百俵の精神を生かしてこそ
 小泉総理の国会での発言以来、「米百俵」がはやり言葉になっている。明治維新後の長岡藩の話だ。

 政府軍(官軍)と闘って敗退した長岡藩は7万5千石から2万5千石に下げられ、藩士は困窮を極めた。そこに友藩の三根山藩から百俵の援助米が届けられ、藩政を担っていた小林虎三郎はその米で学校を建てようとする。

 藩士がその米を配るよう迫った時、小林は「この米を配れば一人5合、何も残らない。今はただの百俵だが、いずれは1万にも100万俵にも、米俵などでない貴重なものになる」と、明日のための人づくりの道を説いた。こうして作られた「国漢学校」は士族・平民、誰もが学べる学校だったという。

 そして今、長岡造形大学で教壇に立つオーガスティン・アウニさんは、この故事に習って市民にカンパを訴えて、故郷ガーナに学校を建てる運動を進めており、その学校は虎三郎小学校と呼ばれるのだという。(以上はTVの受け売り)

 財政が逼迫している時だからこそ、自らは食えなくても将来の発展のために、子どもたちの教育に金をつぎ込もうというのだ。小泉総理の引用はうさん臭いが、なるほど感動的な物語ではないか。

 翻ってわが岡山市はどうだろう。財政の苦しさから、まず手をつけようとしたのは何だったか。ほかならぬ子どもの教育、まさに米を使う学校給食だ。民間委託を順次拡大してコストを削減するのだという。米百俵つぎ込むところを半分の五十俵に値切ろうというわけだ。もっとも、職員が「パート職員の導入などでコストは民間並にできるし、委託ではできない色々な改善もできるからやらせてくれ」と求めても、教育委員会はうんと言わないというから、どうやら五十俵をケチろうというだけの考えではなさそうだ。学校給食から手を引きたい、手を抜きたいというのが本音だろう。これでは米百俵の精神とは、まったく逆ではないか。

 最近、ある縁で、岡山市に転入しようとしている県外の方から、子どもの転校先について相談があった。その方の子どもはアレルギーがあり、卵が食べられない。学校給食でアレルギー食、つまり卵の除去食を作ってくれる学校を探しているというのだ。

 その方が候補に上げたのは市南部の3つの小学校だった。栄養士さんに尋ねてそれぞれの学校の対応を伝え、その方の希望もあってその地域の幼稚園や中学校の様子も伝えた。たまたま自分が住んでいる地域でもあったから、自然環境や社会環境もいかに良いところか(自分はそう思っているのだ)というニュアンスで、できるだけ書き込んで伝えた。

 すると、その方から次のようなお礼のメールが届いた。「私たちは人に支えられて生きているんだなあ、と今日ほど痛切に感じたことはありません。(中略)皆さんのおかげで自分たちが理想とする学校が見つかりそうです。これから先、岡山に戻っても楽しい毎日が待っていてくれそうで今からワクワクします。メールを頂くまではとても悩んでいましたが、今日からぐっすり眠れそうです。」

 決して自慢するために引用させてもらったのではない。転居にあたって、ここまで子どものことを心配している親の心をわかってもらいたいのだ。こういう親はきっと少なくないのだと思う。岡山県内に転居を考えた時、家を建てようと考えた時、子どもの学校給食で学校を、自治体を選ぶということもありうるのだ。

 アレルギー食を出している栄養士さんの話では、一人でもアレルギーに対応しようとすると、栄養士と調理員全員の共通理解と、毎日の念入りな打合せが欠かせないという。とても民間委託でできるとは思えない。残念ながら、先の3校でもアレルギー食への対応は違っている。もちろんその子のアレルギーの程度や内容によっては、対応できないこともあろう。しかし、そうでない理由で放置されている場合もあるはずだ。何しろ市教委はアレルギー食への対応を認めていないというのだから。

 私たちは子どもが健やかに育つことができる街を作りたいと願っている。その中には当然、学校教育があり、学校給食もある。その学校給食をコストや労務管理の観点から民間委託にしようという岡山市が、市民からそっぽを向かれないという保証が果たしてあるだろうか。子どもを育てている世代の流出を問題としている岡山市。市教委がとっている学校給食での姿勢は、果たして矛盾していないのか。米百俵の話と、先の方からのメールを読みながら、なんともいえない気分を味わっている。                                       
                                       (2001.6.18)