プレ大会にかかわって、国体とスポーツを考えた

 東山プールで行われている水球大会に係員として一日だけだったがかかわる機会を得た。わずかながら水球というスポーツの一端を垣間見ることができたように思う。恥ずかしながら、水球の様子を生で見たのは初めてのことだった。なにしろ、水球を英語で書くとwater poloとなることすら初めて知ったのだから。

 来年はいよいよ岡山での国体、そして身障者スポーツ大会を迎える。会場の整備はもちろん、宿泊も含めた様々な受け入れ準備が進められている。選手の民泊受入れも行われることになっているが、全国からの選手と市民の交流が進むことは大変大きな意味があると思う。

 しかし、何しろスポーツの祭典だ。もてなしで岡山のすばらしさをアピールしたり、選手との交流が進んだとしても、それはスポーツ大会の主たる意味とは考えにくい。やはりスポーツの大会を市民の力で成功させるからには、スポーツにかかわっての成果が市民の中に広がらなくては意味がないではないか。

 国体については、もう必要ないとか、開催県が優勝するために特別の対策をするのはおかしいなど、いろいろな意見があることは良く知られている。一部の優秀な競技者のためにだけ国体が行われるのでは意味がないという意見に賛成する者だ。たとえ岡山県が優勝したとしても、変な話だが、当たり前のこと。関係者には悲願であっても、多くの市民にはたいした意味はない。1年もしないうちに、その意義は忘れられるだろう。  

 大切なのは、優れた選手の活躍を見たり、選手との交流を通して刺激を受けることによって、どれだけの市民が新たにスポーツに親しむようになるのかではないか。見ることで楽しみやストレスの解消につながることはある。しかし、本当のスポーツの良さは、それに参加することによってはじめて得られるはずだ。国体や特に身障者スポーツ大会は、何よりもそのことを私たちに教えてくれるのではないかと期待したい。

 そう考えながらテレビを見ていると、全盲のボウラーの活躍が紹介されていた。病気で盲目となった人がボウリングに挑戦し、世界大会で3位入賞を果たした映像が目に飛び込んできた。見事なフックボールでストライク!1本残ったピンをカバーしてスペアを取り、188ピンをマーク。目が見える自分でも、正直に言えば180ピンを超えることの方が少ないのだから、見事と言うほかない。

 全盲の方が投げるためのガイドレールなどの設備やボランティアが必要なことも紹介されていた。そうした体制を整えることが必要なのだということもわかった。そして、何よりやってみようという意欲を引き出すことと、チャレンジする心の大切さを感じさせられた。

 国体を機に整備された施設や盛り上がりを、何とか多くの人のスポーツデビューにつなげられないか。そうなってこそ大会は成功したと言えるのではないだろうか。

                                       (2004.7.25)