小さな車に乗り換えるのも環境にはちょっとだけやさしい?
 中古の軽四を購入した。通勤用だ。職場に乗っていった初日が大雨で、スモールライトを点けていたのを消し忘れ、バッテリーがあがってしまったのには、我ながらあきれてしまった。ちょっと高い授業料を払うことになったが、まあなんとか走っていて、けっこう役立つじゃないかと感心している。なにしろ、持ち歩いているパソコンより安い価格がついていたのだから。

 もともと大きな車に乗っていたわけではないが、普通車を捨てて軽四に乗り換えたことになる。小さな車に乗るのも気分的には悪くない。一人か二人で乗ることがほとんどで、4人乗って走ることなどほとんどない私にとっては、必要十分。

 そういう思いだからかもしれないが、周りを走っている車の大きいこと。眼の前を大きなベンツなどが走ると、ああ金持ちが走っていると思ってしまうが、たくさん二酸化炭素を出しているのだろうなとも思える。

 先日テレビで水没を始めている太平洋上の国の様子を観た。満潮になると島の土地のあちこちから海水が吹き上げてくる。珊瑚礁の上の土地だから、いくら高い防潮堤を築いても意味がないのだ。このままでは人が住めなくなり、水没も現実のものになると思えた。

 原因が地球の温暖化であることは疑いない。そして、その原因が二酸化炭素の蓄積によるものであること、アメリカの抵抗で京都議定書の発効が危ぶまれていることも私たちは知っている。でも、何ができるかと考え、自分の暮らしを見返してみると、配慮が足りないことだらけだということに気づかされる。

 母を車に乗せて走っていたら「あなたの息子はよくそんな車に乗っとるなあ。かっこを言わんのじゃな」と近所の人に言われたという。誉められたのか、けなされたのかわからないが、善意に取ることにした。以前に比べれば軽四の安全性も高くなった。大きな車がかっこよく思える感覚を見直す機会があってよいのではないか。もちろん、自転車か徒歩に切り替えるのが理想だが。

 とはいえ、我が家の長男は、そんな父の気持ちとは関係なく、3000ccのディーゼルエンジンを積んだ車を乗り回している。二男も生意気に普通車の新車を買いたいという。理想と現実、親と子の関係は、いつもこのように簡単にいかないものなのではある。       
                                      (2002.6.28)