強い社会と寛容の関係を考えた
イラクで人質となり、無事開放されて日本に帰ることができた人たちに対するバッシングが問題となっている。
図らずも昨日、フリーター暮らしの二男と論争になった。彼は例の三人に批判的だ。あんなやつらを助けるのに僕らが払った税金を使うのはおかしい。国も危険だから行くなと言っているのにあえて行ったんだから、命の危険は覚悟の上のはずだ。助けてもらったんだから金を払うのは当然。とまあ、こういう主張なのだった。
二男が言うには職場の周りの人もみんなそう言っているというのだ。真偽のほどは確かめようがないが、あながち嘘とも思えない。若い人たちの中にもこういう意見が多くなっていることに、いささか危機感を覚えないではいられなかった。
アメリカのパウエル国務長官が日本人はこうした人がいることを誇りに思うべきだと述べていることを聞くにつけ、自国民の救出という当然の責務を果たした政府が被害者バッシングの急先鋒になっていることの理不尽さを感じる。と同時に、この国の人たちに蔓延している気分や感情の中にある「不寛容」を感じざるを得ない。
中学生が集まっているのを見ると何か悪いことをするのではないか心配し、そのくせ怖くて声もかけられないという大人が多い。子どもの泣く声がすると、なんでこんな所に子どもをつれてくるのだと腹が立つことはないだろうか。今回のイラクの件も含めて、どうも弱い立場の人を攻める気分が蔓延しつつあるように思えるのだ。いつのまに私たちの中に、このような他人に対する不寛容の精神?が根付き始めたのだろう。
犯罪の増加といい、人々の不寛容さといい、ここしばらくの国の政策と無関係とは思えない。構造改革は弱肉強食、優勝劣敗の社会作りだといわれて久しい。そこで作り出されているのは小数の勝者と圧倒的多数の敗者=弱者ではないのか。とすれば、不寛容は弱者の弱いものいじめと言えなくもない。将来の見通しがない不安を抱えている者の中にある他人への不寛容が社会を荒廃させ、いっそう政府の暴走を許す結果につながるのではないかと危惧する。
他人やその行動に「寛容」な社会こそ、真の意味で強い社会ではないだろうか。「寛容」な社会であってはじめて、外国人や障害を持つ人など、困難を抱えた人も共に生きる社会を創ることができる。そうした社会を創る「レシピ」を、私たち自治体に働く者は示すことができているだろうかと自問したい。
(2004.4.28)
