余裕時分について考えた
「余裕時分」という言葉が社会に広く認知されるようになった。ここで言う「余裕時分」とは、列車運行ダイヤに組み込まれるべき余裕時間のことだ。JR西日本の尼崎での大惨事の原因に、この「余裕時分」のなさがあるのではないかといわれている。
事故を起こしたあの運転区間では、駅が増えたにもかかわらず、所要時間は変えられていなかった。ある駅の停車時間は15秒。どこかのドアに客が集中すれば、遅れが出ることは間違いない。
事故を起こした電車は区間最速に設定されていて、「余裕時分」はゼロ。一度遅れを出すと、もうほとんど取り返せない。他の私鉄との競争に勝つために、JR西日本がスピードアップを至上命題としていたことは明らかだ。安全、すなわち乗客の命より、利益を優先していたと言わざるを得ない。
JRの運転士でない私たちも、実はこの余裕時分のなさを体験している。約束の時刻に遅れそうになって、あわてて車を走らせている時だ。つまり、「あせって」運転している状態。
JR西日本の運転士との違いは、たとえ遅れても、たいていの場合、謝れば許してもらえることだ。これがもし、彼らのように遅れたらボーナスカット、「日勤教育」という名の見せしめにあい、二度と車を運転させてもらえないとしたらどうだろう。今以上に焦ることは間違いない。こうした時に冷静な判断力など望むべくもない。誰でも実感としてわかることだ。
機械でも余裕は不可欠だと習った覚えがある。車のハンドルしかり、自転車のチェーンだって余裕が要る。まして人間がすることだ。余裕なしでちゃんと仕事ができるとは思えない。
私たちの職場を考えると、御津・灘崎両町と合併して職員は310名あまり増えたが、人員削減目標は合併前と変えられていない。明らかに市域は増え、施設も職場も業務も増えているのに。現在の職員削減目標は、計算上ちょうど旧両町の職員数になると思うが、これは偶然のいたずらか。必要以上の職員配置を求める者ではないが、どこか似ていると感じる。
国鉄分割民営化の際に、これに反対した労働者を「人材活用センター」に押し込んで、草むしりをさせるなどのみせしめを行ったことを、私は忘れてはいない。体質は変わっていない。むしろ一貫していると言うべきだ。JR西日本の事故の原因がきちんと究明されることを期待するが、私たちはそこから何を教訓として学ぶべきだろうか。
(2005.5.21)![]()
![]()