ファミレスで豊かな食事を考えた
 夜のファミレスで一人パソコンに向かうのは変かも知れないが、けっこう眠気覚ましになって仕事がはかどったりする。そうしてコーヒーを飲みながら店内を見回すと、アベックや女性のカップルに混じって、親子連れが食事をしているのが目に入った。

 夕食には決して早くない時間だ。若いお母さんと子ども二人。兄妹なのだろう。オーダーした料理が届くと、三人が互いの料理に箸を伸ばしたり、中学生くらいの兄が妹の口に自分の料理を少し運んでやったりしている。家族の温かみのようなものが三人を包んでいるようで、なんとも微笑ましい。

 思い出せば、市役所に就職して間がないころ、家族で月に一度ファミリーレストラン(当時はファミレスなんて言わなかった)に食事に行くのが楽しみだった。決して多くない給料では、それは月に一度の贅沢だった。子どもも楽しみにしていたし、もちろん自分も楽しみにしていたことを覚えている。

 今では、ファミレスでの食事は決して贅沢とは言えなくなっている。親子が遅い時間に食事をしている姿は、逆になんだか生活の疲れを感じさせて、決して豊かさの象徴には見えなくなっている。仕事で疲れて、今日は料理をする元気もなかったのかな、なんて思ってしまう。そんなことを思いながら、先の親子のほほえましい姿を見たものだから、なんだかほっとしたものだ。

 改めて豊かな食事ってなんだろうと考えてしまう。お金を出せばなんでも手に入る。ファーストフードやファミレスも相変わらずはやっている。しかし、ファミレスが使っていたホウレン草は中国産の農薬にまみれたものだった。世界中から集めた食材を使った見た目の豪華さやメニューの豊富さが豊かな食事の条件なのかというと、首を傾げたくもなる。

 先日観た「たそがれ清兵衛」ではないが、自宅の庭で育てた野菜を使った食事は、なかなか豊かなそれと言えるのではないだろうか。野菜を作る土地と時間がある。献立を考えて調理する、その知識や技もあるわけだ。清兵衛の時代には清貧の象徴にもとられかねなかった自家製野菜が、今では贅沢なことなのかも知れない。

 なにしろ取れたての新鮮な野菜はおいしいし、農薬の心配も少ない。そういえば今週の土曜日、「岡山のとれたて野菜はぼっけえおいしい!」という催しが中央公民館で開かれる。地場産食材と学校給食がテーマだが、豊かな食とはどういうものかを考えるチャンスとも思える。試食を食べながら、自らの食事ありようを考えてみてはどうだろうか。 
 
                                        (2002.9.17)