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 第三章 行儀作法と罰  (17頁)

 キリスト教信者の高田家ではあったが、両親は子供達に非常に厳しかった。長上や先生に対する礼儀作法や、その他種々の日本的躾けを子供達に教えたのである。その行儀作法と躾け方がどんなものだったかについて、敏子はこう語った。“両親の処へ行く時など、襖の開けたてはひざをついてやらなければなりません。年上の人には必ずひざまずくか、坐って物を言わねばなりませんでしたし、立ったままで物を食べることは許されませんでした。”と。人に話をする時には、まづひざまずいてから前ににじり出て、畳に手をついて言わねばならなかった。両親に対しては特にそうしなければならなかった。“寝る前には、親や祖父母に向かって、こうしてお休みなさいと挨拶したものです。”

 高田家のような階層の家では、子供達は敬語と普通の言葉と二通りを教えられた。年上の人や目上の人には、敬語を使わねばならない。一方商人の家の子供達は通常そのような丁寧な言葉使いや行儀作法は行わなかった。そういう家庭の子供達はいわゆる“下町の子”であり、それに対して“山の手の家庭”というのが敏子達のような家のことであった。

 まだ小学校へ上がる前の小さい子供達は、あまり言うことをきかないと、こらしめのために押入れへ入れられてしまうのが普通だった。蒲団のはいっている押入れは、戸を閉めてしまうと真っ暗なので子供達は怖くなってすぐに大声で謝ってしまう。敏子はそのような自分の経験をこう話した。“ある時、私は押入れへ入れられたのですが、こわがるどころか積み重ねた蒲団の上で気持ちよく眠ってしまいました。そのうち父と母は、私があまり静かなので心配になってしまい、やがて母がやってきてソーッと戸を開けてみました。すると私が気持ちよさそうに眠っているので叱ることも出来ず、やむなく私を抱えて行って寝床へ寝かせてくれました。父は大笑いして、‘敏子は我々の手には負えないね。しかしまあよくも怖がらずにいたものだ。’と感心していました。”

 “もう一つのこらしめの話ですが、私はそれをいまだに忘れることができません。昔はよく大きな籠をかついだ屑屋さんが、‘くずーい、くずーい’と言って歩いていたものです。ある時、私があまりいたずらをしたので、母はこの屑屋さんを呼び止めて、‘屑屋さん、この子はあまり言うことをきかないから、連れて行って下さいな。’と言いました。ところがこの屑屋さん、剽軽な人だったとみえて、‘ヘイヘイかしこまりました’と言って籠を下ろしたので、私はほんとうにびっくりしてしまい、それ以来私は屑屋さんを見るとすぐに逃げ出すのでした。いまだに屑屋さんというものを好かないのもおかしな話です。とにかく私は、自分が母親になったら、子供にあんなことだけはするのをよそうと思ったものです。母はその時まだ若かったし、私もいたずらだったには違いありません。母はよい方法を考えついたと思ったのでしょうが、しかし後になって父からひどく叱られていたようでした。”

 敏子は行儀はよかったけれども、かなりのお転婆娘であった。彼女は元気に跳びまわり、思ったことは何でも言ってしまうし、つまり女の子らしくないのである。日本の教育では、女の子は何事にも慎ましやかにしなければならないと教えていた。男の人に尽くすというのがその方向であり、すなわち父に、兄弟に、夫にそして息子に、ひたすらその人達の幸福を願って尽くすように教えられたのである。しかし、敏子の生き方は、明らかにすべての人々を幸福にしようとするものだった。おさない子供たちや、もっと大きい子供たち、女、男、あらゆる日本人、そして外国人をもひっくるめてである。敏子は人々に幸福になろうとするにはどうしたらいいか、自分の体得した方法を説いたが、彼女の生き方こそそれだった。

 敏子の父は、子供が悪いことをした時に罰するにも考え深かった。これは敏子を躾ける場合にもよく現れている。敏子が何か悪いことをしてしまうと、姉が父に言いつけに来た。姉にしてみれば敏子の振舞いは高田家の恥であり、とりわけ自分自身の面目もつぶれると思い込んでのことであった。父はことの重大さもわからぬではないが、敏子を罰してくれという姉の願いはもう手遅れだと思ったのである。彼はついに、“あの子が本当にもっと悪い子と判るまでは、おしおきはしないでおこう、”と言った。


  第四章 父と娘  (20頁)

 敏子の子供時代、まだ日本では、キリスト信者であろうと一般の家庭であろうと、少年少女の交際は大変に悪いことと思われていた。男女七才にして席を同じうせずという教えである。そのような習慣に従わない者は親も子も非難された。ただ教会だけが成長期の子供達が男女で会うことのできる唯一の場所であった。

 その点、常斎は大変自由な考え方を持っており、子供達に対してもかなり自由意志にまかせておいた。彼は若者が好きだったから大勢の若い人達が訪ねて来たが、敏子の見たところでは、実際は青年達は姉が好きなので会いに来たのだと言うのである。

 敏子は男の子には興味がなく、それに女の子の後を追いまわすような者は安っぽい人だと感じていた。言わばむしろ彼女は旧式な方だった。敏子の遊び相手というとたいていアメリカの子供達とか、アメリカの商社で働くヨーロッパ人の子供とか、日本のごく普通の家の子供達とかであった。そうした子供達は自由奔放で、お互いに少しは英語もしゃべれるし、また日本語も少しは出来た。敏子が彼等の家へ行った時はヨーロッパ風の食べ物を始めて味わってきたり、また彼等が敏子の家へ来た時は母の作る日本式食物を楽しむのだった。この時代の敏子は何でも普通とは異なったことが好きだった。

 高田の家へあまり多くの若者が来るので、ある時友人が父に注意して、子供達のことを気をつけなければいけないと言った。彼はそんな時こう返事した。“私には子供のことは誰よりもよく分かっているつもりだ。もし娘達が、丁度私が妻を見つけたように、自分で夫を見つけるとすれば、きっと良い人を選ぶだろうと思う”と。しかしその半面、彼は娘達に向かってくり返し言うのだった。“必ず家の不面目になるようなことはしてくれるな”と。

 “父は、時には非常に厳格で、また短気でした。一度こうと思ったが最後、決して他人の意見はきき入れないのです。時には人を怒鳴って追い返すこともありました。けれども何か困ったことが出来ると、いつも人々は父の所へ相談にやってくるのでした。子供の中では、父に何か言えるのは私だけで、他の子供達は父をいつもけむたがっていました。母でさえも何か父に言いたいことがある時には、“敏ちゃん、あなたお父さんに話して来てちょうだい”と言うのでした。私はいつも父の怒りっぽいことや、あまり厳しすぎることについて父に文句を言ったものです。父は、そうなったのは自分が母親にすっかり甘やかされてしまったからで、娘達を甘やかしてそんなふうにしたくないのだ、と説明するのでした。”


  第五章 女学校時代  (22頁)

 ミッションスクールの共立学園は、日本で最初に出来た女学校で、1871年(明治4年)にニューヨークのアメリカ宣教師団婦人連盟によって創立された。敏子は11才の時に、既にそこの通学生であった姉に連れられてその学校に入学した。同校が1971年(昭和46年)11月に創立百年記念の祝賀会を開催した時、敏子も古い卒業生の一人として出席し、学生時代の寄宿舎生活や、あるいは60年以上も昔になるその頃の宣教活動のエピソードなどを皆の前で物語った。

 その頃、学校はミス・グロスビーという大変生徒に厳しい先生が管理していた。彼女は色々な規則を作り、生徒がそれを守るように監督した。黒衣をまとった白髪のその先生は、いつも厳然とした態度を持していられるので、敏子はその先生にミス・クロー(カラス先生)というあだ名をつけて、ほかの子供達と同様に恐れていた。

 通常の日課は5時半起床で始まる。6時に朝食で、寄宿舎の掃除がすむと20分間の朝の黙想の時間がある。ところがこの黙想の時間は必ずしも皆が黙想しているとは限らない。ある生徒はその日の学課の準備を忘れ、机の上にはちゃんと聖書を置いてあるのだが、膝の上にこっそりノートを拡げてやっている。講堂にはいってくる先生の足音を聞くとあわてて眼を閉じて黙想の姿勢を取るといった具合である。

 毎日の学課は普通8時半から3時半まであった。夕食は5時半で、その後に晩祷の時間がある。そしてそれが終わると就寝時間までが夜の勉強時間となっていた。下級性の就寝時間は8時、上級生は9時だった。

 敏子の話によって、夜の勉強時間の様子が窺えるのである。50人ばかりの生徒が大きな部屋に集まり、宣教師の先生が真ん中に坐って監督している。アメリカ人の先生達は長い大きなスカートをはいていて、その頃まだ年も身体も一番小さかった敏子にとってはまるで巨人かなんぞのように思えるのだった。まだ電燈はなく、石油ランプが鈍い光を放っていたが、そのうす暗い中で生徒達はアメリカ人の先生の身につけている物をつぶさに観察した。そして、どうも自分達の物とは違うので、首をかしげたくなる気持でそれを見ていた。一番不思議に思われたのは、先生方は家に入って来る時も決して靴を脱がないことである。敏子はそれが嫌いだった。

 敏子の姉は自宅から通学していたので、知らないことも随分あったに違いない。さて敏子は先生達の部屋から時々大きな音が聞こえてくるのに気付いた。もともと敏子は好奇心が強く、何でも自分でやってみたいという冒険心に富んでいたので、その音が何であるか確かめてみようと思い立った。ある日曜日に、彼女は“日曜病”という奇妙な病気にかかった。これは生徒達が日曜日の礼拝に出たくない時にかかる病気である。

 彼女の話はこうだった。“誰も邪魔者がいなくなった時、私はその場所へ入っていきました。すると長い鎖が下がっているのを見つけて、何だろうと思ってそれを引っぱってみました。すると驚いたことに大きな音がして水が流れ出しました。私はびっくり仰天、大水になってしまうのではないかと思いましたがしかしだんだんとその水はおさまり、やがて止まったので、その時はホッとしました。私はその音があの大きな先生が出すのではないかと思っていたのです。しかしその謎は解けました。すると私は、この設備はまったく不公平だと思いました。私達生徒の方にはこのような水洗便所などないのです。生徒達の便所は庭の後にありました。ただ病気の人のために建物内にも一ヵ所あったのですけれど、普通は私達は冬の寒い時でも外の便所へ行かなければなりませんでした。”

 敏子がこのニュースを流したので、その後の日曜日に、他の生徒達も例の“日曜病”にかかってこれを探検に出かけた。この“日曜病”は、無論色々な目的に使われたのである。

 土曜日は洗濯と大掃除の日となっていた。上級生は井戸水を汲み上げて使い、下級生は天水桶にたまった雨水を使うのだった。水道はまだなかったのである。その頃は制服といっても洋服ではなく、皆和服に袴をはいていた。生徒達は夕食の時間が待ち遠しく、その間非常にお腹がすくのだが、ことに掃除の日は余計に空腹を覚えた。そこで生徒達は校舎の裏へ行ってそこの木に登り、塀越しに向うのお菓子屋のおばさんに呼びかけてお菓子を売って貰うのだった。お転婆な敏子はいつもこの木登りの役目を勤めた。そのうちに舎監の先生はこれに気付き、土曜日にはお八つを出してくれることになった。各自から二銭づつ集めて焼芋を出してくれたのである。(一銭二銭という単位は今は無く、現在では最小単位のお金が円であるけれども)。最初この二銭のお芋を出してくれる時、先生は鐘をならして皆を集めた。すると誰かがそれを号外の鈴の音と思って、一体何の号外なのときいたことから、それ以来このお芋のことを“号外”というようになった。生徒達はこの貧弱なお八つをどんなに楽しみにして食べたことだったろう。

 最も大事な土曜日は、月の最終土曜日で、その日は学校の外へ出かけることが出来た。生徒は各自小さな帳面を老先生の所へ持ってゆかねばならなかった。それには英語で“……へ出かけますので許可願います。日没迄には帰校致します。”と何処か近くの場所を書いておくのである。

 敏子はそれについて次のような思い出話をするのだった。“若し英語が間違っていると、先生は‘この綴字が間違っていますよ。書き直していらっしゃい’と仰言るのです。せっかくきれいな着物を着て、出かけるばかりになっている時に、また部屋へ戻らなければならないなんて、まったくがっかりでした。

 学校から少し行った所に三つの丘があって、生徒達はそれを第一、第二、第三の天国と呼んでいました。私はそれを丘の本当の名前だと思い込んでしまい、ある土曜日に提出する帳面にこう書きました。‘天国へ行って参ります。日暮れ前に帰校致します。’そしてそれをミス・グロスビーの所へ持って行ったのです。先生はそれをご覧になって、私の書いたことの意味が少しもわからないので、‘敏、若しあなた天国へ行ってしまったら、日暮れ迄に帰ってくることなど出来ませんよ’と仰言いました。しかし、私はどうしても行きたいと言い張り、帰って来ると先生の所へ帳面を取りに行きました。私が外出している間に、先生は天国の意味がわかっていました。先生は私に向かって、天国へ行って楽しかったか、とお尋ねになるのです。私は大変面白かったと答えました。”

 “すると、先生は私の両手をお取りになって、やさしくキスして下さいました。そして‘敏、いつかあなたは本当の天国へ行かなければならないでしょう。そこはね、今日あなたが行った所よりもっと美しくて、ずっと楽しい所なのですよ。そこへ行くために、あなたは良い子になって、イエス様を愛さなければなりません。わかりましたか?’と仰言いました。その時以来私はもうミス・グロスビーを決して怖いとは思わなくなり、お互いの心が通い合うような気がしました。私がキスされたのは、この時が始めてでした。勿論、日本では、家族でもキスをするという習慣はありませんでした。”

 寄宿舎の生活も、試験中は本当に憂鬱なものになった。上級生達は早く起きて勉強をしようとする。家の中は寒いので、皆毛布にくるまって食堂へ行き、そこで賄い婦さん達が朝飯の準備をする間、ランプの光で勉強するのだった。上級生の中には、敏子に朝四時半に起こしてくれとか、五時に起こしてくれとか頼んで、まるで彼女を目覚まし時計のように使う者がいた。どうして一番小さい敏子にそんなことを頼んだのかと言うと、それはこうである。“私は朝まだ暗くて寒い中を、寄宿舎をずっと西の棟の端から南の棟まで起こしてまわらなければなりませんでした。その人達は‘単語を教えて上げるわ’とか、時によっては訳し方も教えてくれるので、私は辞書を引く手間がはぶけたのです。”

 このようにして敏子の共立学園での7年間が過ぎて行った。それは1900年代の始めの頃だった。1971年、同学園の4日間にわたる百年祭の行事に際して、敏子は演壇に立った時、その頃の宣教師のことや寄宿舎の生活などについて物語った。聴く人達も昔の話をきくとやはりその当時の人達の気質というか、何か時代精神のようなものを感じて喜んだのである。79才の敏子はそのプログラムの中で最高の人気を占めたが、考えてみると彼女は、女学校時代にすでに生き生きとした魅力を発揮して、皆の人気者であったのだ。

 敏子が女学校を卒業した時は、女子のための大学はなかった。どの大学も共学は認めなかったのである。敏子は日本文学を日本人の先生から、また、英語はイギリス人の先生について学んだ。彼女は一生懸命にある目的をもって勉強していたが、その目的は何だったのだろうか?

 子供の時から彼女は先生になることと同時に、アメリカへ行って外国人を知りたいという夢を持っていた。その夢は実現可能であったろうか? 大人になると彼女は急速に、一つの日本的世界─外人をもまた婦人教師をも含めたそうした世界に入りこんで行った。ともかくそれから長い間、不安定な変わりやすい年月が続くのである。


 第六章 就職  (27頁)

 第一次世界大戦の頃は、日米両国はたがいにその国への関心が高まってきた時であった。一人の小さな日本婦人高田敏子が最初の勤め口を探していたのは丁度この時期だった。だが、まだ社会生活の中へ婦人を受け入れようとはしない日本の社会に、敏子は直面したわけである。そんな中で、彼女はどうやって自分の英語の教養を活かしてゆくことが出来たであろうか? また、どうやって経済的に独立していけたであろうか?

 当時の日本の状況としては、実業界で婦人が有力な存在として独立してゆくのはむずかしいことだった。日本の婦人には、伝統的に二つの型があった。一つは妻として、また母としての型であり、もう一つは種々のたしなみを持った芸人としての型であった。伝統的に、男は政治や実業界で女に地位を与えることを拒んだ。

 何百年もの長きにわたって、日本の女性は男子の専制のもとに暮らしてきたと言える。まったくの男尊女卑であって、女はほとんど何の権利も与えられず、ひたすら奉仕を求められた。婦人もそのような状態は好まなかったけれども、何事も男の考えた通りにがまんしてやってゆかねばならなかったのである。

 しかし、これはずっと昔からそうであったというわけではない。西暦769年以前には、日本には七人の女帝がいたのである。

(電子入力者注・769年とは奈良時代の後期にあたる。歴代の女帝は人数では八人。通算では十回女帝が誕生しており、二回は重複して帝位についている。最後の二人は江戸時代の天皇である。日本では天皇そのものが絶対的権力をもっていない歴史が長く、女帝といってもあまり意味はないであろう。また神功皇后は歴史上の人物であるか疑問とされている。)

天皇の未亡人であった神功皇后は三世紀に自ら軍を率いて朝鮮に渡り、勝利を収めた。また、古い日本文学にはしばしば勢力を持つ巫女のことが出てくるし、十四世紀までは日本神道の最高の位にある伊勢神宮の高位の巫女(斉宮)は皇女が勤めたのであった。また、多くの女性は歌人として名をなしており、かの最も有名な文学作品である「源氏物語」も女性の作品であった。

 六世紀に、隣国・中国の文化が日本に影響を与え始めてからは、日本の婦人の地位は徐々に下がってゆき、十三世紀には、まるで終身奴隷の如く─まず第一には父に従い、長じては夫に、次にはその長男に従うということになってしまった。仏教も儒教と同様、東洋における婦人の地位をまったくの従属的なものに落としてしまった。それでも少しばかりの婦人指導者が、まだ生き残っていたのかと思われるような状態で、存在することはしていた。そしてそのわずかばかりの指導者が、婦人の自主独立の精神を説き、散発的にではあるが、その運動を続けていたのであった。

 その点高田家の男達はまったく異なっていたし、また娘の敏子は、普通の娘とは何と異なっていたことか。彼女の父はよく“敏子は男に生まれてくればよかったのだ”と言ったが、それは日本では最高の讃辞なのである。ともかく彼は、女でありながら意欲的に行動する敏子を支持し、そして彼女のことを非常に誇りとするようになっていった。

 敏子の子供時代からの夢─先生になること、アメリカへ行って外人を知るということ、それは単なるあてのない気まぐれではなかった。その夢は彼女が大人になってからも、はっきりした目的となっていた。そのために彼女は、まだ1900年の始め頃の日本では、越えることが困難だった種々の問題に遭遇し、それと闘わねばならなかったのである。彼女は、もって生まれた精力と理知により、そうせずにはいられなかったのだ。だがこんなに小さな人がそのような大きなことを、どうやってやりとげていくことが出来たろう。もともと彼女の新しい知識への興味と意欲とは、小さい時から顕著であったにしても。

 さて日本の赤ちゃんは、よその国の赤ちゃんより泣くことが少ないと言われているようだが、その理由は簡単である。日本では赤児が泣きそうになると、母親はすぐに乳を与えるなどして、子供の思う通りにしてやるのである。赤児はいつも母親におぶわれて、背中の上から自分の周りの人の言葉を聞き、顔色を見て色々覚える。だから、肝心な基礎的生活体験をしなければならない時─例えば歩くこと、話すこと、考えること、感情的や身体的な面での躾け、またひとに甘えてよい時と悪い時を知るなど─その時期に赤児はこうした寛大な取り扱いを受けることになる。そこでこの寛大な扱いは、日本の幼児時代というものを楽しい経験にしてしまう。現代の心理学者によれば、学習することは楽しみによって増強されるということである。日本の人達が、一生を通じて学習に熱心でかつ勤勉なのはこの理由によるのだろうか? 日本の子供達は、四、五才になると急に大きくなったように扱われ、赤児時代の楽しさは終わってしまう。だが、こうした理由での学習心の強まりは一生続くものだろうか?

 高田敏子が最初に社会的な仕事を得たのは、ジャパンタイムスであった。その仕事は彼女には面白かったし、英語の進歩の上にも得難い経験を与えてくれた。彼女は記事が新聞に印刷される前に、それを英語でタイプした。また記事の英語もやった。この最初の仕事は心を励ますものだった。もはや彼女を女だからとか、あるいはクリスチャンだからとかいって拒む者はなかったし、また独立したいという彼女を妨げるものもなかった。世界はだんだんと小さくなってきており、日米両国はいっそうニュースの交換を熱望するようになっていた。


 (イラスト 共立学園)


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