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 第十五章 アメリカ訪問の年  (71頁)

 1950年,高田敏子は横浜のバイブルスクールおよび神学校で授業の手伝いをすることになった。彼女は月に何回か生徒達に通訳するため,横浜の学校へ奉仕に出かけたのである。朝七時半に家を出て正午まで働くので,彼女は出来ればもっと他の仕事をしたいと考えることもあった。そして幾度もこれをやめようかと思ったが,しかしいつも,神の助けによって続けていられることを思い,感謝の気持で続けていた。するとニューヨークにあるバイブルスクールの本部から,年頃の彼女の奉仕活動に対する感謝のしるしとして,アメリカで勉強するよう,二期間を招待するという申し出があった。一応二期間という指定であったが,実は自分の好きなだけいつまで滞在してもよいという申し出である。学校は南カロライナ州のコロンビアにある,コロンビア・バイブルカレッジであった。

 そこで1953年,高田敏子はコロンビアカレッジであちらの生徒達と勉強するべく,アメリカへおもむいたのである。この時のことは,彼女の記述によるとこうである。“最初は私にとっては失望でした。学生達は学習の題目についてはなはだ知識が乏しいのです。彼等は私のところへ文法やスペリングを訊きにくる始末でした。それで私は今度は大学卒のクラスに入り,旧約聖書,キリスト教義等について勉強することにしました。そこでも私はどんな問題でも答えられないことはない程でしたし,教授は大そう驚くと同時に他の生徒に対して腹を立ててしまい,彼等を叱るのでした。そこで私は立って,これまで横浜のバイブル・スクールと神学校で何年か奉仕していたことを話しました。”

 その後,彼女は他にもっと色々なことをしようと考え,そこを立ち去った。彼女は教会やキリスト教団体等,どこを訪れる時にも非常に興味をもって訪れたのであるが,ミシガン州のミネワンカーにあるクリスチャン・リーダーシップ・キャンプ(キリスト教指導者団)では特にそうだった。また彼女はイリノイ州エバンストンにミセス・マーシャル・ガロウエーを、カリフォルニア州にミセス・ルース・トゥーズを訪ね,さらにマダム・シューマンハインクの弟子であったマリエ・ムーレイをも訪れた。ちなみに,マダム・シューマンハインクは1936年に亡くなっている。

 ミス高田は,インディアナ大学のルース・ストリクランド教授を訪れるために,インディアナ州のブルーミングトンに二度目の訪問をした。ミス・ストリクランドとは1947年,彼女が進駐軍の教育顧問として来日した時に,日本で会っていた。

 ミス・ストリクランドはこの小さな訪問客を,インディアナ大学の文化活動に招待してもてなした。それには劇だとかオペラ,音楽会,後援会等種々の催し物があった。彼女はまた第一プレスビテリアン教会の集会にも案内し,特に日曜学校の子供達にひき合わせた。

 その子供達と近づきになった時,ミス高田は民間の人ではあったが,日本の善意の大使とでも言うにふさわしかった。彼女と子供達と,また初等部長であるミセス・ドロシー・ジョンソンとの間の友情を通して,立派な友情の橋が架けられたのである。

 ミセス・ジョンソンは教会員,子供達,特にその両親に対する報告書の中で次のように述べている。“私達初等部門の間で,国際親善の経験を持ったことは非常に喜ばしいことであり,それは生徒にとっても先生にとっても,また少くとも何人かの両親にとっても喜ばしいことなので,私はこの報告を皆様にお伝えする次第です。

 “このことは1953年から4年にかけて,日本から高田敏子というお名前の,すばらしい小さな先生が合衆国を訪ねて来られたことによって始まりました。この旅で高田先生は一人のアメリカの先生との旧交を温められるためにブルーミングトンへ来られました。ここで先生はルース・ストリクランド教授と会い,また多くの新しいお友達も作りました。これで友情の架け橋が始まったわけです。この橋の日本の側には高田先生と,川崎教会の子供達とその両親,また多くの会員達がおります。ブルーミングトンの側には第一プレスビテリアン教会の初等科の子供達と先生方がおります。しかしまず私達は高田先生が1953年〜4年のアメリカ訪問の旅から無事に船に乗って日本に帰り着いたことをお知らせしなければなりません。

 “先生はブルーミングトンを発つ日まで,日曜学校の生徒達が一緒にいて,送ってくれたことを大変喜んでいられます。次は先生の言葉です。‘色々お世話になり,ほんとうに有難うございました。また良い物を日本の子供達に贈って下さって有難うございます。この年は私にとってまったくすばらしい年であり,私は多くのことを学び,かつ神の子供達とともにあって,本当のクリスチャンの生き方の意味を経験によって知ることができました。それ等の物を私はみな日本へ持ち帰りたいと思っています。私がアメリカにいた間中,毎日が大きな祝福でした。’”

 それから24日後の3月31日に富島丸は帰港して,ミス高田と若い婦人のボニー・ジョンソンは上陸した。ミス・ジョンソンは,ミス高田が愛らしいおみやげとして日本へ連れて来た人で,これから宣教師になる人であった。船は港内に投錨したので,荷物を揚げるのに長い時間がかかった。荷物の中には新しいオルガンや蓄音機,洗濯機などがあった。

 以下,彼女の手記による。“税関の人々は親切でした。彼等は18個の荷物をよく見ようともしなかったのですが,洗濯機だけは別で,2600円程か,とにかく7ドルくらい税金を取られました。

 “沢山の友達や生徒が私を迎えに来ていました。出発した時と同じ波止場で,またその人達と会えたことは何と嬉しかったことでしょう。とても親しい宣教師のお友達,ミス・バランタインも会いに来てくれました。午後六時に我が家へ帰ってみると,そこは朝から私を待っていてくれた人達でいっぱいでした。まあ何という歓迎! 二日の間私はどこへも出かけることができず,会いに来られなかった人からの電話の応対に追われ通しでした。私は再びアメリカが恋しくなりましたけれど,でも,やっぱり我が家へ帰って来たことは嬉しく感じました。ただし,アメリカの家と比べてみると我が家はいかにも見すぼらしく,不自由なものではありましたが……。ああ,やはり我が家に勝るものはないという諺の通りです。船の給仕さんも言いましたっけ。‘英語で話すより日本語は楽ですよ’と。

 “家へ帰ってみてまず気がついたことは,天井に二つも大きな穴があいていることでした。雨がもってくるので,留守番の人達が天井を少しはがして床にバケツを置いて雨を受けたのです。その人達は修理の職人を呼ぶことも出来なかったのですが,私が帰ってきて頼んだら直ぐに来てくれました。次は水道の出が悪く,やっとポタポタ出るだけで,やかん一杯の水を汲むのにも大変です。これもみな戦後間もなく粗末な材料でやったからのことなのです。限られたお金で,あちこち必要な修理をしなければならないのには閉口しました。

 “何事も与えられるものを,ただ楽しく受けていた十一ヵ月でした。そんな恵まれた生活の後,今度は自分で何もかもやってゆかねばならないのですから,とても困難を感じて,初めは何から始めたらよいのか分りませんでした。留守を守っていた人達は私が帰ってきたのですっかり安心してしまい,一時に気がゆるんでしまったようでした。そこで私は直ちに仕事に突入していかなければなりませんでしたが,これは素敵な楽しい一年を暮らしてきた私への罰に違いありません。

 “沢山の歓迎会が催され,まだこれからも続きそうですが,でも私はゆっくりとやっていかなければならないと思っています。大分疲れが出てきましたし,ロスアンゼルスでひいた風邪の後で抵抗力が衰えているようです。

 “多分ご存知でしょうが,こちらでの目下の話題はビキニで行われた原爆実験のことです。行く先々で私は,いったいアメリカの人達はこの問題をどう思っているのかと訊かれます。しかし私がこのニュースを聞いたのは太平洋の上だったのです。私はいま日米両国の間に立派な友情の橋を架けようと努力していますけれど,このビキニのニュースは日本の人々を少からず悩ませていると申さねばなりません。多くの人々が平和を望んでいるのに,何故? 何故に我々はこんなにも苦しまなければならないのでしょうか? 人間は原爆などを使わないで,愛を示し合うことは出来ないものなのでしょうか? それは神様だけがご存知のことと思いますけれど,我々は神の葡萄畑でもっと働かねばならないと思います。”


 第十六章 友情の橋  (76頁)

 初等部のミセス・ジョンソンはこのように報告している。“子供にとってミス高田は,新しい,そして素晴らしいお友達でした。私達は我々両国間に友情の橋を架けようと計画を立てておりますが,その架橋はすでにしっかりと始まりました。我々の知る限りでは,それは終りのない交わりなのです。彼女に対して私達がどのように感じているかは,一人の二年生の男の子がよく言い表わしていると思います。その子は去年初等部からクリスマスカードを出した時,いかにもなつかしそうな顔をしながらこう書いたのです。‘ミス高田は教会中で一番よい人です。’と。”

 ブルーミングトンで計画している色々のことの中に,この橋を通して川崎へ手紙を送るということがあった。手紙だけではなく,子供達の描いた画だとか小さな贈り物である。たとえばアメリカの祝日について,14項目にわたって述べている絵入りの“楽しい祝日”という本。また,“アメリカの益鳥”という一組の絵もこの橋を通って旅して行った。初等部はビューマスターの映写機を買うのに教会のお金を使った。そして色々なフィルム─アメリカ各地の巻だとか,聖書の物語のものとか,または子供や動物に関する巻とか─を買うのに子供達や両親に来て貰った。小さな人形を買うと,三年生の子が,家で着物を作ると言って持って行った。着物とベッドのついている大きな人形を買うことも計画した。ミス・ストリクランドがその人形を買おうと計画したのだが,ベッドは三年生の子のそのお父さんが作ってくれることになり,また着せかえの着物は色々な組の子供の親が作ってくれた。

 ミセス・ジョンソンはまた次のようにも報告している。“やがてビューマスターの映写機と31巻のフイルムは川崎に送られました。大部分のフイルムは,私達の映写機にかけてあらかじめ子供達にも見せました。それは親達も一緒に気をつけて選んだものでした。荷物は無事に川崎に着きました。そのことに関しては,1954年11月1日付でこちらへ出した手紙の抜粋をみると,その様子が生き生きと書いてあってよく分ります。”

 “何とびっくりするような素晴らしい物を私達にお贈り下さったのでしょう! 映写機と沢山のビューマスターのフイルムが今日到着致しました。丁度私がそちらの子供達へクリスマスの贈り物を送ろうと思って出しに行こうとしていた時に,税関から映写機が着いたという知らせが来たので,私は飛んで行って直ぐに受取って参りました。私達は子供の組にあの絵を見せてやったところ,みんなもう夢中で大騒ぎしていました。私は今夜もまたそれを見せて,今度は英語で説明して上げようかと思っています。時々私の行ったことのある場面にぶつかると,思わず叫び声を上げてしまいました。そしてもう一度行きたいと,アメリカが恋しくなってしまいます。ほんとうに有難うございました。

 “さてそちらの子供さん達のために,70幾つかの小さな贈り物をお送り致しました。なるべく目方を軽くしようと思い,包みませんでしたので……。また,その方が,すぐご覧になってから皆さんの年令などによって分けて戴くのに,都合がよいかと思いました。大部分は,日本の子供達が喜んで集めているような人形です。

 “私は,今学期は大変忙しいスケジュールでやっております。横浜のバイブルスクールを教えに行ったり,自分の学校の普通の授業の他に特別の個人的な授業もあり,また日曜学校で教えたりもします。ですから空いている日がありません。しかしもっと暇のあった時よりかえって出来るものだと思っています。”

 “橋”のもう一方の側,インディアナのブルーミングトンでは,ミス・ジョンソンが日本の人形の到着を次のように報じている。“十二月一日頃,こちらの子供達へのクリスマスの贈り物の箱が二個届きました。それには人形がどっさり入っていて,大きいのは6インチの高さ,小さいのは1インチもない位のかわいいものです。大部分が木製で,エナメル塗りの美しい顔ができていて着物を着ています。たいてい男の児か女の児で,二つ揃ったのもあります。中には台に取りつけてあって,錦のきれで飾ってあるのもありました。またあるものは商いの人形で,たとえばおそばを盆にのせて持っているそば屋さんです。中にはパズル式になっているものもあり,ねじると開いて,中にはさらに小さい人形が入っているのでした。贈物の中に日本の各地の写真が一組,陶磁器が一つと,幾つかの硝子張りの小さな箱があって,その中には人形とともに小さな庭ができていました。

 “先生達は贈り物を分けながら,そこに表れた温かい心持ちに打たれ,そうした物を選び,一つ一つを包装するのにも,深い心遣いがなされていることを感じとりました。また,その優れた細工にも感心しました。それは子供達をどんなに喜ばせたことでしょう。贈り物はクリスマスの後になってから子供達に分けました。というのは,クリスマス直後のあわただしい時に渡すよりもそうした方が子供達も嬉しいだろうと思ったからです。私達は「世界の友情」の展覧会の開場の時のためにその代表的な物をとっておきました。

 “私達の教会では,教育会館の建設を計画しており,そのための土地もすでに準備されているのですが,その中にこれ等の物を保存する場所を作り,「大きなクリスチャン家族」の中のある人々の作った作品の見本としていつでも皆が見られるように,また使うことも出来るようにしたいと思っています。

 “そうこうするうちにも,「友情の橋」の私達の側では,バレンタインに送る物の用意をしています。私達はクレヨンと鉛筆とを各子供さんに上げることにしました。バレンタインカードは子供達が買うか作るかします。私達は誕生日の拠金や教会のお金を使いました。子供達の委員が必要な買物を致しました。私達はバレンタインのナプキンや,ハート形をしたキャンディ等を買い,それにメッセージを添えて楽しいパーティの気分を出すようにしました。日本ではバレンタインの日を祝うという習慣は多分無いだろうと思ったので,その説明もいっしょに送りました。その荷物は「橋」を渡って行くよう,一月十二日に郵便で発送致しました。

 “二月の半ば頃,私達のバレンタインの箱が「橋」を渡って無事に届いたという便りがありました。‘一月十四日付のお手紙落手致しました。面白く,楽しいお知らせがいっぱいのお便りを戴き,ほんとうに有難うございました。バレンタインの荷物は二日前に到着し,お手紙にあった通りの物が入っておりました。品物も完全な状態で届きました。子供達が昨日思いがけない贈り物を戴いた時の,その輝かしい小さな顔を,お見せしたいようです。昨日は風が強く,嵐のような日でしたので,そんな日に楽しい贈り物を上げてびっくりさせてやろうと私達は決めたのでした。私はまず子供達をストーブのまわりに集め,日本ではバレンタインのことは知らないので,そのお話をして上げました。キャンディはお母さんにも分けて上げるようにと私は言いました。私達はバレンタインはやらないので,子供達に,月曜日に絵葉書を持って来させ,それに何か書いてそちらの子供さん達にお送りするつもりです。私達は大変嬉しかったものですから,子供達も一所懸命になって,自分の名前をローマ字で書くことにしています。アメリカの子供達は日本字は書けないので,自分達のことを少し得意になっているようです。

 “私の貴いアメリカからのおみやげ,ボニー・ジャクソンは,よくここを訪ねて来て週末を過して行きます。彼女に会うと,いつもアメリカの思い出が新たによみがえり,そこで受けた好意を思い出し,同時に神の恩恵をも感じます。彼女の日本語はとても速く上達しています。彼女は日本の生活にも慣れ,またここの若い人達からも愛されています。彼女を見ていると,若い宣教師の人達が日本へ来た場合,どのように私達がお手伝いしたらよいかということで多くのヒントを与えられます。宣教師の人達はどこへ行っても自らは何も求めず,いつでも奉仕的です。人々は彼等に対し自分から与えることなしに,期待だけはしているのです。これは恐らく,初期に日本へ来た宣教師達が,人々を集めるために物をよくくれたことからそうなったのかも知れません。私達は我が家をもっと外人に開放すべきなのですが,それをしていません。ですから,宣教師達が我々の生活を知る機会を持ち,それに早く適応したいと思っても,むづかしいことだろうと思います。このことは日本のクリスチャンの間では、一般の人とはいささか異なると思いますが,でもとにかく宣教師の人達は,あらゆる種類の人々の中を歩いて行くべきだと思います……。

 “私は,若い宣教師の方達が我々と親密になるように,「日本語を話す会」(J.S.S.)を始めようと計画しております。私の友達で,海外へ行ってきたことのある人達がこの計画に喜んで協力してくれると言っています。私達は色々面白いプログラムを作ることができると思います。たとえば彼等を色んな家庭や学校に案内して行き,日本の行儀作法の練習をしたり,日本料理を習ったりすることなどです。それをするのには,日本語を使ってやります。どうぞこの計画が成功しますようにお祈り下さい。”

 ミセス・ジョンソンは紙芝居について述べている。“一月九日(1955年)付の手紙でミス高田は,東京へ行って紙芝居を一組買ったと言ってきました。紙芝居というのは紙の劇場ということです。まづスーツケースのような木の箱があって,それは正面の扉が開くように出来ています。日本では紙芝居屋さんが自転車にこの箱の舞台を据えつけて街にやってきます。そして子供達に,次々と舞台の絵を換えて見せながらお話をするのです。話が丁度面白い所にくるとそこで話を止めて飴を売ります。そこから,話の続きはまた明日ということになります。

 “さてクリスマス前から,大きな人形とベッドが私達教会学校の部屋に置いてあります。ミス・ストリクランドがその美しい人形─ほん物そっくりの肌をして,青い青い目をしたその人形を買ったのです。人形はもちろん,目を開いたり閉じたりできますし,もちろん我々の組の子供達からも十分可愛がって貰いました。今,三年から四年生になったステブン・ジャングは,お父さんといっしょにベッドを作りました。それは立派なガッチリした物で,白く塗ってあります。ところが,まだ蒲団がありませんでしたので,子供達は人形がはだかのベッドに寝ているのを見ると,素早い反応を示すのでした。「お母さん」として,あれこれ品物をこしらえようという志願者が続出しました。またたく間に蒲団や枕,毛布やベッド掛けやシーツなどを揃える計画が立てられました。また,一人の子はベッドに何か模様をつけて飾った方がよいと言いました。その後何回か日曜ごとに,子供達は人形のベッドへの寄贈品を持ってきました。ある朝,デビィは目を輝かせながら枕を持ってきました。

‘先生,この枕の中の羽根,どこからお母さんが持ってきたと思う? 僕の枕から少し取ったんだよ。’リンはベッド掛けを持ってきて掛けながら言いました。‘これ私の大好きな人形のベッド掛けなの。’と。

 “ついに最後の装飾に至るまで,用意万端が整って,ある三年生のお父さんと校長先生の御主人が船便で出すために箱を荷造りしました。しかし船便の荷物の大きさは,いったいどれ位だとお思いですか? その箱は途中で送り返されてしまい,解体して包み直さなければなりませんでした。

 “さてこの話の続きは,ミス高田の手紙から読みとることにしましょう。‘4月7日,そちらから大きな人形と大きなベッド,それに蒲団や二枚のシーツ,毛布,枕まで入った大きな箱が届きました。何の破損もなく無事に到着し,関税もかかりませんでした。荷物を解きながら私達は叫び声を上げてしまいました。4月8日は丁度私達の学校の始まる日で,その日に子供達に,またお母さん達にもそれを見せられるので,ほんとうに喜びでございました。人形はベッドや蒲団などの付属品と共に教室の窓の所の席においてあります。そして生徒がみんな毎日やってきて人形を撫でたりして可愛がります。私の女中さんも毎朝人形にお早うを言いにきます。人形は子供達ばかりでなく,見る者を誰でも楽しませてくれます。子供達はメリーと名をつけました。本当にありがとうございました。どうぞ子供達のお父さんやお母さん,そしてお祖母さんにもまたデビーちゃんにもよろしくお礼を仰言って下さいませ。’

 “その手紙の中でミス高田は,私達に送る人形を買いに東京へ行ったと書いています。そして,‘お蒲団をこしらえてからお送りします’と。やがて人形と蒲団とが届きました。人形は冬の着物を着ていて,まっ直ぐに伸びた黒い髪の毛と黒い目をしており,鼻と口が美しく彩色してありました。蒲団は主に黄色と赤で,座蒲団と枕も添えてありました。その人形は男の児か女の児か,先生達はよく分からなかったのですが,子供達は‘男の子だ’と言ってそう決めていました。日本に問い合わせたところ、子供の言う通りだと分りました。人形の名前をつける段になった時,ミス高田は手紙でこう言ってきました。‘太郎としてはどうですか。太郎は長男につける名前ですから’と。

 “彼女の話では,太郎を買う時に急いだので醜い人形を送ってしまったと詫びていました。そして‘この次には美しい女の人形を送ります’と言っています。しかし私達は太郎が醜い人形だとは思えません。ある先生の五才になるお嬢ちゃんが,私達の感じていることをよく言い表わしてくれたと思います。その児はミス高田の言葉を聞いて憤ったように叫びました。‘これ,ちっとも醜くなんかないわ’と。そして人形を抱いて,まっすぐな髪の毛を撫でるのでした。人形のお母さん程人形をよく知っている者はないでしょう。ことに五才の人形の母が感じていることは真実です。”

 かくしてブルーミングトンの第一プレスビテリアン教会およびその子供達と,川崎教会と,その学校と子供達のとの間の「友情の橋」は,しっかりと連結され,いつ迄も続いてゆくのである。

 ここで,その年(1955年)の八月に書かれたミス高田の手紙を紹介してみたいと思う。これにより,ミス高田の日常生活の一端や,日本の子供達の人形に対するやさしい心遣いがうかがわれると思うからである。

                         1955年8月25日

 ジョンソン様

 大へんご無沙汰しておりました。可愛らしい人形とスクラップブックをお送りいただき,それなのにお礼の手紙が遅れてしまってお許し下さい。私達はあの人形で大喜び致しました。夏期学校に来た子供達はいつもあの人形で遊んでおり,おかげで大分汚なくなってしまいました。それで私達はきれいに洗ってやっております。

 教室に入ってみると,時々人形は裸で寝かされているのです。子供達の考えでは,服を着ていては暑いだろうと思うわけです。私は,人形はやはり何か着ていた方がよいと言うのですが,子供達は暑くて可哀そうだと言うのです。こちらは暑い最中だったものですから。……

 私達がお送りした日本人形も冬の着物を着ておりますから,暑くて困ったかも知れませんね。

 教会が改築されましたそうで,私もそれを拝見できたら嬉しいのですけど。時々そちらで過した日曜日のことを思い出します。子供達の顔もまだはっきりと浮かんでくる程です。このように,一度共に過した経験はいつまでも心に残っており,いつでも思い出すことができるのですから不思議なものだと思います。教会やルースの家はいつでも思い出すことができるのですが,あなたのお宅へは伺ったことがなく,また私の日本の家も見て戴いてないのは残念です。いつかきっといらして下さいませ。

 今年は大そう暑い夏です。こちらでは,七月八月はすべて暑さと湿気の中に溶けてしまいそうです。みんな汗を流しています。私も閉口しておりますが,しかしどちらかというと私は暑さには強く,そのかわり寒さには堪えられません。さいわい,わが家はただいま風通しがよくて涼しいのです。

 この夏は私はどこへも出かけず家にいて,ただおいしいごちそうを食べ,日に何回でも好きなだけお風呂に入って過しております。やはり休まるのにはわが家ほどよい所はありません。

 昨日,東京へ芝居を見に参りました。ところが劇場の冷房が強く,寒かったので風呂敷を着ておりました。劇はマダム・バタフライで,アメリカ人と日本の女優さんが出演しましたが,二人はよく似合っていました。今年はこんな風に休暇を過しております。

 今日は雨が降って涼しい日です。どうしたのか停電しているので,よく書くことができません。これから横浜の会合へ行ってきますので,帰ったらまた続けます。

                           8月26日

 お早うございます。お元気でいらっしゃいましょうね? ご旅行は如何でしたか?

 今日もまだ降っていて涼しいのです。そちらへ参りましたのがもう二年も前になるなんて,考えられません。時の経つのは何と速いこと。

 そちらの子供さん達から送って戴いたスクラップブックを,夏期学校の間ずっと使いました。みんなとても楽しみました。

 もう,そろそろクリスマスのことを考えてもよいと思うのですが。私達の“友情の橋”のために何か考えがおありでしょうか? また紙芝居をお送りしましょうか? どうぞ何か,お考えを仰言って下さい。ミス・フィールドには長くご無沙汰しておりますが,私の手紙を彼女にも見せて上げて下さいませんか。そして,どうぞよろしくお伝え下さい。子供さん達にもどうぞよろしく。

                          高 田   敏


 (イラスト 高田家の墓)


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