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 第十三章 通訳者  (58頁)

 その頃ミス高田は,空襲の被害のなかった三島の町へ,英語を教えに行っていた。彼女の父は何年か前に亡くなり,故郷である三島の高田家の墓地に埋められていたが,その父の友人で,クリスチャンであった人が三島の市長をしていたので,敏子はその人の援助を求めた。市長は話を聞くと,喜んで手をかしてくれ,教会で学校を始めるように計らってくれた。

 一方,アメリカの占領軍は一週間後に三島へ来ることになっていた。高田敏子が英語の学校を始めるときいて,千人以上の人が─主として大人の人だったが─生徒として集まってきた。お医者,弁護士,大学の卒業生,警官などが続々とその教会へやってきて,学校はたちまち狭くなってしまい,そこで止むを得ずもっと広い場所のとれるお寺へ移った。そこでは,生徒は畳の上にずらりと長い列を作って坐った。ところがこの小さな先生は使う本が何もなかったのである。それで彼女は集まった人々に,何でもよいから英語で書いた本を探して学校へ持ってくるようにと頼んだのだった。翌日になると,あらゆる種類の英語の本や辞書,それに英語の聖書までも集まった。しかし,それらの本をいったいどうやって使ったのだろうか?

 大人の生徒達は,とにかくアメリカの人達に英語で話が出来るよう,また聞いて解るようになろうとしてやってきたのである。すでに米軍の来る時期は迫っていた。米軍の士官は到着するとすぐにミス高田の所へ来て,町の人々に軍の命令を伝えるのに通訳をしてくれと頼んだ。彼女はそれを承諾した。そして士官達の通訳をするに止まらず,三島の一般市民のためにも通訳の労をとった。

 地方の工場主などは,占領軍が彼等の工場を検査にくる時,ミス高田に一緒に来てくれるよう頼むのだった。それらの工場は軍の指し図で,取り壊しを命ぜられていたのである。工場主達は高価な機械類を持っており,軍の人達に何とか話をつけて,その機械類を助けて貰えたら,ミス高田のために家を一軒提供しようと約束したのだった。ところがミス高田が機械類を救って上げたにもかかわらず,彼等はその約束を実行しなかった。家の話は実現しなかったのである。ただし,しばらくたってから,ある工場主がトラックを一台提供してくれた。

 娘を持つ親達は,アメリカ軍によって,略奪や暴行が行なわれるのではないかと心配して,幾度もそのことをミス高田にきくのだった。彼等は,娘や若い女を田舎の親類に預けておいたのである。

 占領軍が去った後,敏子は学校を一軒の家へ引き移した。その間彼女は,弟の家の近くのアパートに住んで,三島高校でも教鞭を取っていた。インディアナ大学のルース・ストリクランド教授が最初に彼女を訪れたのは,この三島の土地でだった。

 どのようにしてストリクランド教授は高田敏子を知ったのか? それには,カリフォルニア州バークレーのミセス・ルース・トゥーズという人の仲立ちがあったわけである。ミセス・トゥーズとストリクランド教授は,数年前からの知り合いであった。ミセス・トゥーズは毎年の夏,インディアナ大学へ移動図書館を持って行き,そこで二人は会っていたのである。1947年の夏,ミセス・トゥーズがストリクランド教授のことを尋ねると,彼女は日本の東京へ行っているということだった。それはその年の三月初旬のことで,占領軍の一員として出張した彼女の仕事は,日本の教育改革を指導し,助言することだった。

 ミセス・トゥーズはミス・ストリクランドに手紙を書き,是非高田敏子に会うようにと勧めたのである。そもそもミセス・トゥーズが敏子を知ったのは1930年に,敏子がバークレーのカリフォルニア大学の学生だった時のことである。敏子は病気にかかったが,まだその頃はアジア人がアメリカの病院へ入ることが許されなかったので,困っていた。そして,いつもきれいな日本の着物を着たあの小さな日本人の生徒が患っているときいたミセス・トゥーズは,早速車で自分の家へ連れてきて,なおるまで養生させたのだった。二人はそれ以来親友になった。もっとも,後に敏子がミス・ストリクランドにしばしば話した所では,ミセス・トゥーズは独断的な所があって,それにはいつも敏子は恐れをなしていたということだった。

 良い仲人はいつでも労を惜しまぬものだが,ミセス・トゥーズは敏子にも手紙を書いて,その時東京にいたストリクランド教授に会うようにと言ってきた。ミス・ストリクランドは占領軍の一員として,東京新橋の第一ホテルに滞在していたが,そこから敏子に手紙を書いて,ある土曜日に昼食を一緒にするからホテルへ来るようにと招待したのだった。後にミス・ストリクランドは二人の出会いについて,次のように述べている。

 “それは雨の土曜日でしたが,私はホテルの入口に立って高田さんを待っていました。するとあの小さい人が大きな傘をさして,雨の中を道を横切って歩いてきました。私はすぐに彼女を私の部屋へ連れてきて,食事の前に少しばかり話をした後,食事のために特別の部屋へ行きました。と言うのは進駐軍の規則として,日本人を食事に招待することは許されていなかったからです。

 “話は支障なく進みましたが,しかし初めのうち彼女は大分控え目に話していました。そのうちに敏は私を三島の自分のアパートへ来て,週末を過すようにと招いてくれました。三島は東京の南,お茶の産地として有名な地方にあり,彼女の父親の誕生の地でした。彼女は米軍の爆撃を逃れて,終戦後もずっとそこに住んでいました。というのも彼女の家や学校は東京で焼けてしまったからです。

 “私達は日本の食物は食べないように命ぜられていました。それは日本の食糧が少なかったからでもありますが,もし日本の農耕のやり方で出来た食物を,生で食べるようなことがあるといけないという理由もあったのです。そこで私は中央のP.X.(米国職員のための店)へ行って,まぐろや鮭,クッキー,キャンデー,チーズ,それに一週間分割当ての紙巻タバコ一箱(これは私がいつもチップとして人に上げるもの),それに“夫”の方の一週間分,これも時によってお金と同様に使えるので─これ等の品々を小さなズックの袋に一杯買い込みました。

 “私が三島で列車を降りると,敏が来ていて,私を丁重に迎えてくれました。そして敏の家までジープを運転してくれるという人を紹介しました。やがて私達は,高い板塀についている木造りの門の前で車を降り,少し曲ってついている小路を玄関の方へ歩いて行きました。玄関の戸はすでに開いていました。敏の所で英語を習いながら女中さん役を勤めている二人の高校生が,畳に頭をすりつけるようにお辞儀をしていました。

 “敏は私を居間に案内してくれ,コートなどを戸棚に掛け,またかわいい女中さん達は,銅の金だらいにお湯を入れ,タオルを添えて持ってきました。敏が,お手洗いに行くかと尋ねるので,私が行きたいと言うと,敏は部屋の奥の方の,庭に面した(その庭には小さな滝がかかり,潅木の植込みや竹があった)開き戸を開けて,一段高い小路を導いて行ってくれました。そこには引き戸があり,どうぞと言うと彼女は行ってしまいました。 “私は入って後の戸を閉めましたが,内部は四角な小部屋で,壁があるだけでどこにも出口がありません。私はしばらく考えていましたが,そっと板を押してみると一ヵ所が開いて小さな部屋があり,中はしゃがむようになっている便所で,傍にはちり紙の束が置いてありました。二つの部屋とも薄緑色の美しく塗った跡がまだ新らしく目に映りました。 “居間に戻る途中,またかわいい女中さんが器にお湯を入れ,石鹸と共に持ってきてくれました。その頃もう五時頃になっていたと思います。

 “敏と私は,絹の座蒲団に坐りました。部屋には床の間があって,掛軸が掛けてあり,台座に美しいお皿が置かれ,また花瓶には三本の緑の小枝が,いつもの日本らしい様式で挿してありました。他にはチークの四角い低いテーブルがあるだけで,何も家具はありません。

 “間もなく女中さんが熱いタオルのお手拭きを持ってきてくれた時,敏はいかにも楽そうに座蒲団に坐っていましたが,私はあまり楽ではなく,ぎこちなくすわってテーブルに向かっていました。先づさやえんどうと魚が少しはいったお清汁(すまし)が出ました。次に天ぷらにするための生の野菜や,三角形に切った魚が運ばれ,敏がそれを鉢の中の衣にひたしてから一つ一つ箸で熱した油の鍋に入れるのでした。鍋は卓上に置いた炭火のこんろに掛っていました。そして出来上ると私のお皿に入れてくれました。もちろんご飯が出て,次にお茶も出ました。

 “食事が終る頃,敏はこれから町の公会堂へ行かなければならないと言いました。何故そこへ行くのかと私が訊くと,若い人達に話をして貰いたいのだと彼女は言いました。私はそんな話は聞いてはいませんでした。

 “もう一度お手拭きのタオルが来ると,次には私のコートを持ってきてくれて,私達は出かけました。私は道を歩きながら,何を話したらよいのか,またどういう人達が聞きに来るのかなど尋ねました。

 “‘アメリカの若い人達のことを話して下さい’というのが私への注文でした。すると私達と一緒にカタコトと歩いて来た,敏の手伝いの男の子が,会場へ(それは粗末な建物でしたが)着くと,持ってきた電球を頭上のソケットに取りつけました。その頃は電球も手に入り難く,そのままつけておくとすぐ失くなってしまうとのことでした。

 “会場はほとんどいっぱいでした。高校生から大学生くらいの若者,子供達,赤ちゃんをおぶった母親達,町の有力な経営者達など,そして市長も来ていましたが,少し酔っている様子でした。

 敏は私を紹介しました。それから私は一所懸命に若い人達とその生活,職業,活動,そして彼等の抱負などについて話をしました。それを敏が,大きな高い声で通訳していきました。私は幾つかの質問にも答えました。それから私達は敏の家へ帰って行きましたが,(先程の少年がまた電球を取りはずして),その後を敏の生徒だの友達だのでしょう,大勢の人がついて来ました。みんなは部屋に入りました─この人達は前以て招かれていたのです─そして彼等は一時間あまり質問をしました。

 “私は自分の袋からクッキーを取り出してみんなに廻しました。そしてもう一度袋を引きよせようとすると,敏が困ったような顔をしたので私は止めました。私はもう十分ごちそうしたようでした。後になって私は,襖の外にも小さな子供達が何人か話を聞いていたことが分りました。そこでその子供達も中へ入れて上げました。

 “若い人達が帰ってしまうと,女中さんが蒲団をしいてくれ,白いシーツをしき,日本式にきれいな掛けぶとんを掛けてくれました。

 “私は自分のネグリジェを持っていきましたが,お風呂に入る時着物(浴衣)を貸してくれたので,それを着ることにしました。風呂場は家の一方の端にあって,それは敏だけが使うのではなく,隣のアパートの二人の婦人と共同に使うのでした。私が着物を着てスリッパをはき,廊下に現われると,敏と二人の少女がとんで来て,‘ダメダメ,着物の着方が間違っています。’と言うのです。それは死んだ時のやり方なのだそうです。それで右を下にするようやり直しました。

 “それがすむと敏は私を浴室へ連れて行ってくれて,まずお湯でよく躰を流し,それから湯槽に入ってゆっくり温まるようにと言いました。タイルの円い湯槽にはすでに熱いお湯が入っていて,下から炭火で沸くようになっていました。私もそこまではうまくやったのですが,少しづつお湯に入っていくと,何だかやけどしそうな気がして,あまり長くは中にいませんでした。でも日本人は,その熱いお湯に浸ってゆっくり温まるのがぜいたくなもてなしだと思っているらしいのです。それから寝床に入りました。敏は小さな水さしにコップを添えて持ってきてくれ,古いリーダーズダイジェストを枕元に置いていってくれました。彼女は私の部屋の外に寝たので(その部屋は私達が居間にも食堂にも使った部屋です),私は一緒の部屋に寝るようにと言ったのですが,彼女は来ませんでした。

 “さて翌朝の朝食は苺と,御飯に魚が少々とお茶,それを庭の傍の通路で陽の光の中で食べました。その後で私達は近くの学校へ行きました。そこで敏は20人ばかりの子供達のために,日曜学校をやっているのでした。歌やお祈りやお話があって,最後に‘主われを愛す’の歌で集会が終ると子供達は帰って行き,今度は‘お母さん達’が現われました。それはその地方の幼稚園の先生で,アメリカの幼稚園について,私の話を聞きに来たのだということが分かりました。(またまた突然のことで,私は即席に話をするのでした。)

 “すき焼きのお昼飯がすむと,私達は出かけて行き,折から雲間にちらりと姿を見せる富士山を眺め,それからまた昨日のジープと運転手がやってきて,私は東京行きの帰りの列車に乗せて貰いました。

 “私と敏との日本における接触は,手紙を除いてはこの訪問と,第一ホテルでの昼食の時だけでした。私はかねてディーン・ライトと約束してあった通り,インディアナ大学で夏季講座を受持つためにそこへ帰って行きました。”

 後年,敏子はストリクランド教授の三島訪問についてこう書いている。

 “ドクター・ストリクランドは日本の学校教育改革について助言をするために,米国政府から派遣されてきたのです。私達の共通の友人を通して私は彼女と会い,彼女は私が戦後滞在していた三島の家を訪問してくれました。彼女にとって,日本の家に泊り,日本のベッドに寝て,日本の風呂に入るのはこれが初めての経験でした。お風呂は熱くて入れなかったようですが,水をうめればよいということを彼女は知らなかったのです。

 “今まで私が会った中で,彼女は初めて日本に対し何の偏見も持たない人であり,また我々に対して何の優越感をも持っていない人でした。彼女と知り合うまでは,私がアメリカ婦人を知っていたのは主として宣教師の人達であり,その人達ですら通常私達に優越感を持っていました。しかしそれは,私達が文化の点でまだあちらには遅れていたのですから無理もありません。ところがドクター・ストリクランドは我々の昔からの武士道の精神を研究していて,それが現代の思想の表面に現われないけれども,いまだにチャンと存在することを知っているのです。ドクター・ストリクランドは現代のアメリカ婦人というよりはむしろ威厳あるイギリスのレディーという印象を与えるんです。

 “彼女が私を訪ねて来た時,私は公会堂を借りて三島中の大学生,高校生を招んで上げました。会場は満員になりました。ルース・ストリクランドを面白がらせたのは,私達が自分で電球を持参していったことです。まだ戦後間もない頃であり,公会堂であっても電球を盗まれないように心配しなければなりませんでした。それで私達の手伝いの男の子が幾つか持って行かなければならなかったのです。

 “当時はまだ若い人達は,民主々義ということを正確には知っておらず,そこでドクター・ストリクランドの演題も‘民主主義とは何か?’ということでした。彼女は大変はっきりと話をし,また聴く方も始めて英語の話を聞くので大いに喜びました。(通訳は私がしました。)三島の子供達はまだ一度もアメリカの婦人に会ったことがなかったので,ドクター・ストリクランドが来た時みんな夢中になって彼女に会いたがりました。

 “後で私の部屋で大人達にお話をしていたとき,隣の部屋は子供でいっぱいでした。子供達の中には指をなめて障子に穴を開け,ちょっとでも彼女を見ようとする者もいました。すると彼女は子供達を中へ入れてやったので,その時の彼等の嬉しそうな顔といったら,忘れることが出来ません。彼等は手をひざの上において,まったくお行儀よく静かに畳の上に坐っていました。ドクター・ストリクランドは今度は子供達に向かって話すのでした。”


 第十四章 川崎へ  (66頁)

 ミス高田が三島の学校で教え始め三年目のこと,ある人から一つの提案を受けた。それは彼女に,川崎に地所があるのでそこへ来ないかと言うのである。川崎は東京に隣する大きな都市である。誰もが都市に地所を求めていた時代であるから,川崎のような大都市で地所を手に入れるということはほとんど不可能に近いことだったので,彼女はその申し出を不思議に思った。またその地所は是非学校のために使って欲しいというのである。

 (訳者註。川崎はミス高田の弟,実氏の妻トヨさんの生家のある所で,その地所はトヨさんの姉,平野ノブさんの持ち地所だったのである。ノブさんの希望に従い,ミス高田はそこで学校を開くことにした。)

 これは神の導きの特別の徴であるかも知れないと彼女は思った。そしてそこへ行くことにきめたのである。空襲でひどく焼かれたままになっていたその地所を整理するには三週間かかった。これまでの場合と違い,今度はたとえささやかな学校であるとは言えその費用の蓄えはあまりなかったのであるが,しかし彼女は誰かの助力がきっと得られるに違いないと思っていた。最初の小さな建物が,その長方形の地所の後の方に建てられた。前の空地は美しく楽しい庭にして,街路に面した地所の入口から家の玄関まで,その庭を通って来るようになっていた。大概の日本の家は塀を巡らすのだが,この庭の門はいつも開いていて,通行人や訪問者,また行き帰りの先生や生徒も楽しめるようになっていた。過密な都市の中で,街路に面してこのような庭のある所はこの辺りではなかなか見られないので,これはあたかも神が自然の美しさと安らぎとを示して下さっているかのようであった。

 時は1948年,日本はまだ敗戦の痛手から立ち直れず,人々は困窮の真っただ中に在り,物資の不足と精神的悲哀の中に喘いでいた。そんな中でこの小さな庭を眺めるにつけ,高田敏子はそれが何か特別の意味を持つように感じられるのだった。戦後の悩みの中で,いつであったかある春の朝,美しい富士の姿を眺めて神の心を身近に感じたことを彼女は思い出した。そして,再び神の導きを待とうと思い定めた。この庭の傍の小さな建物の中で彼女は学校経営を始めたのであるが,やがてそれは高田英語学園として徐々に成長していった。

 以前彼女は東京で二つの学校を経営していたことがあるが─英語遊び学校と女学校─その折に苦心して身につけた教授法と,同時に経営方法の経験とを彼女は今日十分に用いることが出来た。やっているうちに,まず子供達が来はじめた。豊かな家の子供もあり,また貧しい家からの子供もいた。しばらくして,大分生徒がふえた頃,彼女はその生徒達やまた近所の子供達のために日曜学校を発足したのである。次いで彼女は大人のための日曜礼拝をも始めた。

 あの素晴らしい牧師である尾島眞治─敏子の親戚である─その尾島牧師がそこへ説教に来てくれて,“川崎教会”の設立に手をかしてくれることになった。彼は日本でプレスビテリアン派に属していたが,戦時中は独立の行動を取って,1950年までに,この川崎教会も含めて五つの教会を設立したのである。それは日本基督会と称され,プレスビテリアンであるが,独立した一個の会派となっている。

 尾島牧師が,この川崎の小さな日曜集会にやって来て説教しているのを見,かつ聞きながら,敏子は過去のことを色々と思い出し,万感胸に迫る思いだった。

 ……若かりし尾島眞治──神官の子であり,すでに和歌の道にも達していた彼が,父の許へやってきて,自分の生涯の仕事についての助言を求め,父の助言通りに熱心に進んでいったこと……

 ……熱心な神学生として強く成長してゆき,ついに素晴らしい牧師となったこと……

 ……キリスト教について多くの著書を出したけれども,その仕事から何の金銭的利得も求めなかったこと……

 ……彼の妻は産婆として働きながら六人の子を育て,犠牲的生活を送っていたこと…… ……第二次世界大戦中には官憲により投獄され,著書はことごとく焼かれてしまったこと……

 ……彼は看守に説教してその何人かをクリスチャンにしたこと……

 ……戦後の困難な時代に、五つもの教会を日本に設立したこと……

 ……そして今,年老いて妻にも子供にも死に別れ,たった独りになった彼が,なおも説教をしていること……

 敏子は彼のことを後にこう書いている。

“とにかく彼は,はっきりした生活の手段を持たず,しかも大変誇り高く生きていました。ある時彼は聖書の索引書が欲しかったのですが買うことができません。それで私に一冊買わせたのです。それを借りればよいというわけです。私としてはその本は要らなかったのですが,でも一冊買うことにしました。”

 その頃アメリカから来た宣教師で,ジョージ・ラウ氏という人が川崎教会へ説教に来てくれた。彼は教会でバイブルクラスを教えていた時,一人の若者に目を惹かれた。それは高橋秀良という青年で,ラウ氏は彼に自分のやっているバイブルスクールへ勉強に来ないかと勧めたのである。その頃はそれはまだ小さなバイブルスクールに過ぎなかったが,現在は,日本クリスチャンカレッジとなった学校である。青年はその学校へ入学し,二年間そこで学んだ。彼はそれから聖書神学校に入り,また二年間研鑚を積んだ。彼は卒業した後,二,三年副牧師として勤めた。

その時川崎教会の牧師だった森豊吉氏は,この高橋青年に非常な望みをかけ,アメリカに一年間留学してくるようにと,その費用として20万円を出すことを申し出てくれた。だがその額では足りなかった。高橋秀良は川崎教会に勤めながらも,種々の仕事をして自らの生活費を得ていたが,それは彼がアメリカの学校へ行ってからも続くのである。彼は,キリスト教会派に属する,カリフォルニアのサンノゼ・バイブルカレッジから,学費免除の特典を与えられ,さらに生活費が賄えるように,種種の仕事も与えられることになった。彼はそこで一年間学んだ後卒業すると,川崎へ戻ってきて,今度は牧師として勤めることになった。今や川崎教会も,主として学生や若者達を会員として,約三,四十人の集会となっていた。彼は今牧師として説教するかたわら,高田英語学園の教師として働いており,県より認可されたその施設の責任者として両方の管理に当たっている。

 (イラスト 「日本人形とアメリカの人形」)


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