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 第十七章 悲しみと喜びと (86頁)

 1954年の三月から四月、五月にかけて、敏子はミス・バランタインを通訳の仕事で手伝い始めた。渡米前には、そうした仕事はもうやるまいと決めていたのであるが、しかし彼女はこう記している。“私はミス・バランタインが大好きだったし、また神から与えられたあの楽しかった旅行に対するお礼の気持もあったのです。”と。

 二ヵ月後、彼女は別段何の異常も認めなかったけれど、ただ少し疲れていた。彼女の言葉によると、当時絶対必要なこと以外は何もやらなかったのだけれど、でも例の「友情の橋」を通して日本から何かを送る計画……その熱心な計画は続けて考えていた。彼女はこうつけ加えている。

“私は通訳と同時に、ミス・バランタインに日本語を教えることもしていました。それは週に一回、丸一日かかる仕事でしたし、またその準備にも何時間かかけなければならなかったのです。”

 夏の半ばに敏子の姉が突然亡くなった。その姉は日本の女権運動の主導者であったが、髪型もその頃は誰もやったことのない短い断髪にした人であった。父は彼女が、未亡人でもないのにその様に断髪するなどということをよくも夫が許したものだと驚いたのである。日本には未亡人は、亡夫への貞節のしるしとして短い髪に切る習慣があった。敏子は、子供時代から成人時代に致るまでの、この愛する姉との思い出の数々をあらためて思い起し、限りない悲しみに心は打ちひしがれながらも、その葬儀を川崎教会で行なうよう準備をするのだった。彼女は友達への手紙に次のように書いている。“しばらくの間は空虚感を覚えて、何をする気力もありませんでした。しかし段々と気をとり直し、ふたたび平和の精神を以て一つの目的を目指し、愛する父の中に自分は活きなければならないと思いました。”

 “私はメリー・バランタインとボニー・ジョンソンを連れて、どこか静かな場所へ行きたいと思っています。私のお友達で、温泉のある別荘を持っている人がいて、その方が私達を招待していてくれるのです。私はそこへ行って日に数回ゆっくりと湯に浸り、疲れた魂を洗濯して来ようと思います。帰ってきたら私はもう一度北の方へ旅行しようと思っています。そこにはやはり温泉があって、美しい避暑地になっている町が私を待っていてくれます。”

 敏子は風呂を楽しむという点では本当に典型的な日本人だった。湯に入れば体もそして精神的な病気も癒ると信じていたのである。何百年も前から神道の教えは、水で身を清めることを、身心の罪穢れを清める禊(みそぎ)として述べてきた。実際に身体が汚れていると神に対して不敬だと信じられていたのである。水浴は神々の心にかなうという信仰的安心をもたらし、自分自身にも、また他人に対しても、心の安らぎを与えるものだった。 日本では、夕暮れ時の五時から七時までを、入浴してその後で、たとえ貧しいものでも或は豊かなものでも、夕食の膳に向うという、一種の大事な時間として考えているのである。入浴は食事や睡眠と同様に大切なのである。

 日本の風呂場は誰でも気持よくはいれるように出来ている。決して急いで事務的に済ませてしまう場所ではない。お湯は温泉なら自然にわいて出てくるが、普通は湯槽に内釜か外釜を取りつけて燃料でわかすのである。床は風呂桶の外に、体を洗い流す湯がよく流れるように出来ていて、そこで石けんを使ってよく洗い、さらに石けんを洗い流すのである。そしてよく洗い流してからふたたび湯槽にはいって温まりながら体を休め、考えごとをしたり、時には歌を歌ったりする。ゆっくりと湯に浸ることを楽しむのである。便所は風呂場にはない。

 アメリカの浴室は鍵が掛かるようにできている。大概着物のまま浴室に入って、そこで素早く脱いで浴槽に入り、石けんを使う。そしてそこで洗い流して、出ると体を拭いてすぐに着物を着て、ドアの鍵をはずして外へ出る。こうして出来るだけ短い時間で日常のことに戻るわけである。

 アメリカで何ヵ月か過して、その間日本の風呂にはいれなかった敏子は、家へ帰ってまず最初にはいった風呂のことを書いている。“帰ってきた夜うちの風呂にはいった時は言いようのない程嬉しかったものです。深い湯槽にどっぷりと漬かる快さ。毎日湯に入ることは、燃料も大変なので少し贅沢だと思われています。けれど私は自分の道楽だからと言って、毎日はいることにしています。”

 その年─1954年にミス高田は、学校と教会とを、彼女の部屋も含めて県当局へ、宗教団体の施設として届け出た。これにより、もし彼女に何か起っても、教会の管理機関が総てを運営することになっていた。県当局はこれを認可し、宗教団体としての非課税措置をとり、またその後何等かの増設があっても無税ということになった。ミス高田は月給を貰うだけということになった。そしてこの後、また新しい建物を建てる計画がきまった。 だが、何といっても、まだ川崎教会は小さかったし、そこへ教会としての礼拝所と学校の建物とを新築するというのは大変なことだった。それに敏子の住居を新しく大きいものにしようという計画もしていたので、これもまた容易ではなかった。しかし、とうとう実行にふみきった。1955年の十一月に大工達はやってきて、古い部屋の部分に継ぎ足して、庭の右側に新らしい建物を建て始めた。戦後間もなく、粗末な材料で建てた古い建物は、小さいし、もう大分痛んできていた。今度の増設では、階下に大きな部屋を一つと、二階に二部屋作ることにした。

 職人はきまりの仕事を終えてから、午後出かけて来た。そこで敏子は、三時のお茶受けを出したり、夕食も出して上げた。さらに仕事が遅くまで続いた時には、深夜にまで及ぶことがあるので、そんな時は夜食をも出して上げた。このような苦労が十一月と十二月中ずっと続いて、敏子は寒さから風邪をひいたのが抜けないまま、日常の仕事もあるので、その忙しさと闘ったのだった。家には暖房設備はないので、石油ストーブで暖をとっていた。

 敏子は暮に三つのクリスマスを、それぞれ指図して行なったのであるが、翌1956年の一月二日に新しい家へ引き移った。彼女は一日中片づけ物をしながら、神が自分を守って下さったのだということに思い致り、またかくも多くの物を持っているというのもまったく神のおかげであると思った。かつて焼け出された時は、たった鍋二つと、寝るふとんだけになってしまったことがあった。でも彼女は、今家を少し広くすることも出来た。彼女はアメリカの友達に手紙を書いて、自分の家は、丁度カリフォルニアの家のように見えると言ってきた。そしていつでもよいから、こちらへ来ていつまでも滞在して下さいと招待したのだった。“私は本当にそのつもりなのですから”と彼女はつけ加えた。間もなく、彼女は50人ものお客様を迎えることになった。料理は庭でしなければならなかった。

 川崎教会は日本の政府からキリスト者の宗教団体として認可され、建物は教会の部分と学校とは別に新築され、共に非課税となる筈であった。そこで教会の主だった者は早速新築の計画を立て始め、費用は一万弗とみたのであったが、これはインフレーションと、適当な材料を確保するためには一万五千弗としなければならなかった。初めの計画ではブロックかコンクリート建てであったが、やはり木材の方が安いので、木造にすることにした。

 ミス高田はよくブルーミングトンの町の日曜日の様子を思い出し、また人にもその話をしたものだが─大変静かな街を教会へ行く人々が帽子をかぶって出かけて行く。ミス・ルース・ストリクランドはよく彼女に復活節の合同早天礼拝のことを話すのだった。それで川崎教会でも、早天礼拝を庭で行なったのである。

 敏子は日本の日曜日のこと─人々の休日の過し方などを書いた。“日曜日には天気がよいと沢山の人達が酒などを持って小旅行に出かけます。列車にはよく酔っぱらいが乗っています。”と。

 日曜日には、娯楽場はどこでも開いていて忙しい。人々は晴着を着て買物に出かける。労働者は仕事を休んで遊びに出かける。日本人は世界中で一番働き者だと言われているが、また遊ぶこともよく遊ぶ。

 その青年、高橋秀良は今では神学校を卒業し、実修期間も終了していた。そして彼は川崎教会へ牧師として戻ってきたのである。最初に彼が戻ってきた時は、敏子の家に泊り、一緒に食事もした。二人はあたかも親子のようであった。

 その後の数年間、教会は熱心に新築資金を貯え始めた。徐々に……まったく徐々にではあったが、資金はたまってきた。祈りの年月を重ねつつ、寄附も集まった。高田敏子は、夜八時半迄も授業をし、そのお金もみな費用にあてるよう教会に出した。熱心な外部の支援者からも寄附が集まった。様々の品物を売って資金集めもした。

 やがて1963年のクリスマスが終ると、ミス高田は銀行へ行って相談した上、すべての必要書類を整えて手続きを終え、そこで大工は新しい建物の建築に取り掛かった。彼女は冬になるとよく風邪をひくのであったが、大工が仕事をしている間も時々風邪に悩まされた。しかし彼女はなるべく授業を休まないようにして、時間のある時には床に入って休んだ。とにかく新しい建物を復活祭までに仕上げて、献堂式を行なえるように頑張ったのである。

 献堂式における最後に採られた処置は、彼女の新しい家も新しい建築物の一部として、教会員の川崎教会への献納としたことだった。献堂式には多くの祝辞が届いたが、その中に、インディアナ州ブルーミングトンの第一プレスビテリアン教会からのものもあった。


 第十八章 友情の橋を渡って (91頁)

 1964年の春、ミス高田は友情の橋を渡って再びブルーミングトンを訪れる計画があることを知らせてきた。ミセス・ジョンソンへの手紙は次のようであった。“私達の教会で最初の礼拝は感謝の式典でした。その後で、私が自分の新しい家を教会へ贈ったことや、建築の資金を集めるのに努力したことに対して特に感謝のパーティを開いてくれました。

 私どもに対し、多くの贈り物と熱心な祈りとを賜わりました皆様に、私および我々教会の人達の心からの感謝をお伝え下さいませ。献堂式にお寄せ下さったお祝辞に対し、ミスター・ウォーカーとあなたにすぐお礼を申し上げることができなかったことをお詫び致します。丁度あの日の直後に私は神経的な衰弱症になりかかってしまい、その後、とても工合が悪くなりました。あの日には様々な感情の波に襲われて……私のような感じ易い者には、平静でいることができなかったのです。

 私は何とお礼を申し上げてよいのか分かりません。でも、あなたにお目にかかったら、この気持をお話したいと思います。ルース・ストリクランドがこの夏の私の旅行についてお話したことと存じますが……。私が心を躍らせている楽しい旅行─その期待をのせて、春がもうそこまで来ております。今度ばかりは時の経つのが遅く感じられてなりません。十年もの長い年月の後で、今度またお会いすることができるのだと思うと、心が躍り上がるようです。ブルーミングトンは私の第二の故郷です。”

 彼女はつけ加えた。“出発する前に、私は新しい建物の家具を備える資金を、どうやって作ろうかと考えなければなりません。しかしすべては神が、今迄もそうであったように、必要な物は神様がそなえ給うことを私は信じています。”

 川崎の高田英語学園は、高田敏子が創設した三番目の学校であった。最初の学校を作った時はまだ若かった。それは「英語遊び学校」といって、革新的且魅力的で、そのようなタイプの学校は日本でも初めてのものだった。それは人々の、非常な興味を呼び起こしたが、もちろん宗教的な教育をしたわけではなかった。開校中は、東京の豊かな階層とか、指導者層の家庭の子供達が通って来た。

 「英語遊び学校」を止めて、次に女子専門学校を始めた時にも、まだミス高田は若い婦人であった。その学校は東京の中央部、皇居周辺の町の中にあり、宗教教育はしなかったけれども、それ以外は十分な課目を設けてあった。主に裕福な家庭の子女が入学してきて、何年もの間繁栄していたのであるが、ついに日本が戦時体制に入ると共に、政府は英語の専門的教科があるというので閉校を命じたのだった。学校の閉ざされる時、生徒の親達が、何とかして小規模でも続けるようにと色々助力しようとしたが、遂にその努力も及ばなかった。

 戦争が襲ってきて、ミス高田は病気に倒れた。彼女の生涯の仕事も駄目になってしまい、学校は軍需工場に売られ、学校の備品は他人に与えてしまった。やがて街は灰燼に帰し、人々は必要品の欠乏と飢えとに苦しむ。こうした戦中、戦後の厳しい年月…。かつて麹町に女子専門学校を経営していた時から、やがてゴミゴミした工業都市の川崎で第三の学校が始まるまで、その間八年の隔たりがあった。

 彼女は生れ故郷の三島で、三年間英語を教えていたが、それは終戦後のまだはなはだしい物資不足の時代だった。そして突然工業都市川崎に、小さな地所を提供しようという話がもたらされた。そこに学校を建てないかというのである。日本では地所は非常に貴重であり、あらゆることに地所は需められている。高田敏子は自分のライフワークの望みもほとんどなくなったと思っていた折から、これは聖霊の導きであると感じた。そしてこのことを考えてみようと思ったのである。空襲で焼けたその土地を整えるのに三週間かかった後、彼女は自ら稼いだお金で小さな建物を建てたのだった。

 ここで彼女は高田英語学園を開校し、少しばかりの子供達が生徒としてやってきた。彼女の英語教授の技術と経験を基に、段々と彼女はキリスト教の教育方面へも手を伸ばしていった。まず学園の生徒のために日曜学校を開き、近所の子供達も来るように招いた。しばらくして彼女は大人のための日曜礼拝を始めたが、それは徐々に発展していってキリスト者の集会が出来上がり、遂に川崎教会と呼ばれるまでになった。彼女がミセス・ジョンソンに書き送った手紙に、自分の今迄の信仰生活を表現して、“私は今迄いつもそうだったように、神様は必ず私達の必要なものはそなえて下さると信じております。”と語ったのも至極当然のことと思うのである。

 彼女がいよいよ貨物船でアメリカへ渡ろうと決めた時は、すでに春も過ぎて夏になっていた。彼女は無制限に荷物を持ってゆくことができたので、ミス・ストリクランドの庭に置く石燈籠やその他日曜学校の子供達のための諸々の品物や、またミス・ストリクランドの家のテラスで宴会を開く時に使うよう種々の特製品を持って行くことにした。ところが、こうした準備の真っ最中に、ミセス・ジョンソンから便りが届いて、日曜学校の夏期学習は7月の22日に終わるということが分った。そこで彼女は計画をすっかり変更して航空券を買い、7月14日頃日本を発ち、直接インディアナポリスへ行ったのである。彼女は、長くて自由な海の旅を取り止め、また石燈籠を持ってゆくこともあきらめてしまった。

 彼女は確認の手紙にこう書いた。“ルース様、どうぞ私のことは心配ならさないで…。自分でも十分に気をつけますから。もう私は我慢ができなくなりました。私の身も心もすでにブルーミングトンへ飛んで行ってしまったようです。すべての準備を終えて、今はただ友人達が催してくれるお別れの会にあちこち出るだけです。身体の方も昨日お医者様が、何の心配もなく大丈夫だと言って下さいました。もし迎えに出て戴けない場合は、どうぞどなたかを迎えによこして下さいませんか。知らない方でも分るように、私の旅券用の写真を前もってお送りしておきます。”

 彼女のその夏のアメリカ訪問はすばらしい大成功だった。初等の子供達とミセス・ジョンソンはあの友情の橋を通じて手紙や写真、贈物やゲーム類や本など色々な物を送り、また向うからも同様に送ってきたのだった。子供達はミス高田を大歓迎した。第一プレスビテリアン教会の人々も彼女を迎えて大変に喜んだし、もちろん彼女も同様であった。それはお互いにクリスチャン同志の温かい心の通いだった。

 ストリクランド教授が教会の人々を招待するに際して、ミス高田は室内やテラスの飾りつけを出来るだけ日本式にしてみようと心を砕くのだった。ある暑い夏の夕べであったが、六人の客が到着すると、そこには美しい浮き織りの日本の着物を着たホステスが現れてにこやかに接待するのだった。テラスのテーブルには月の光が輝いていた。敏子が上手に活けた花が飾ってあり、また各々の席には、魚や莢豆の形をした小さな瀬戸物の箸置の上に箸が置いてあった。八人が席についた時、敏子は日本語でお祈りをした。

 最初に出てきたのは小さな盆にのせた手拭いで、模様の染めてあるその長い布は熱い湯で絞ってあって、ほのかによい香りが漂っていた。その特別な香料は敏子が日本から持ってきた物である。客はめいめいその温かいお絞りで手を拭いて、丁寧に畳んで元の盆に戻し、食事の終わりに再び使う時には間違わず自分のを使うようにした。

 初めの料理はお清汁(すまし)の椀で、中に薄く切った人参と青い莢えんどう、それに魚かと思われる小さな物が浮かしてあった。それはミス・ストリクランドの、蓋に金で模様のついた朱塗の椀に入れて出された。お清汁を飲む前に、浮いているものを箸で取り出さねばならなかった。客は皆、どうやってうまく箸を使おうかと苦心しながらも、そのことに興じるのだった。主な料理は炒めご飯と普通の白米に牛肉、アーモンド、マシュルーム等で、それに調味料と醤油が使ってあった。

熱いお茶が取っ手のない茶碗に入って出たが、それには砂糖もクリームも使わなかった。最後にデザートの果物が出て食事は終わったが、それは初めから終わりまですっかり日本式のやり方で行われた。たとえば日本の女主人公は最初のお清汁の椀を第一にウォーカー牧師の前に置いたのである。ウォーカー氏はちょっと驚いた様子で、静かにそのお椀を夫人の方へ寄せながら、“女の人に先に上げるのではないのですか?”と言うと、敏子はお椀をまた彼の方へ戻してこう説明した。“日本ではお父さん役がまず第一に受けるのです。”と。次にジョンソン教授に出され、それから他のお客─それは皆婦人であったが─に席の順に従って配られた。

 敏子は時間をかけて非常に丁寧に、細長い赤いリボンに日本字を書いて一人一人の客に渡し、また客には手拭が配られた。その細長い手拭には、日本字とかあるいは有名な踊り手や歌舞伎役者の紋などが染め抜いてあった。

 ずっと後にルース・ストリクランドは、その時以外にも敏子と二人で開いた晩餐会のことや、また二人だけで食事をした時のことを思い出してこう語った。“食前の祈りを敏に頼むと、いつも彼女は日本語でしました。英語ではどうもうまくお祈りが出来ないのだそうです。食事の後で敏子はよく色々と自分のことを話してくれました。家庭でのこと、学校でのこと、また仕事のこと。彼女は日本の婦人運動についても興味を持ってはいましたが、でも彼女自身は女権運動にはたずさわらなかったようです。彼女は滅多に戦時中の生活については話しませんでしたが、でも尋ねれば少しは話してくれました。

 “日本在来の生け花というのは、敏の得意ではありませんでした。彼女はその方のお稽古はあまりやらなかったのではないかと思います。と言うのも敏は、学校での生活で学問的な勉強に打ちこんでおり、その方により多くの時間を費していたのだと思います。日本の女学校では多くの生徒が茶の湯を習っていますが、彼女はあの日本の昔ながらの茶の湯というものも、あまり習っていたとは思われません。彼女の通っていたようなミッション・スクールでは、そういうことは公立の女学校のようにそれ程大切なことと認めなかったのではないかと思います。

 “1970年のクリスマスに、彼女は私と六週間をともに過しましたが、その間25人くらいの客を招いて日本式の晩餐会を二回やりました。敏は準備をするのが大好きで、また、もちろんパーティをも大いに楽しみましたが、そんな時彼女はいつも優雅で、労を惜しまず、必要ならどこででも適度に日本について教えてくれました。”

 ジョセフ・ウォーカー夫人は、ブルーミングトンの友達の家で、敏子と同席した夕食会のことを思い出した。“敏は日本の食物を用意してくれ、我々はまた正式の日本のお茶の形式を守ったものです。彼女は私達めいめいに歌を作ってくれ、親切にそれを日本語と英語と両方で読んでくれました。とてもよい歌でした。ジョーと私は毎年クリスマスカードをあの親愛な友から……そうです彼女が亡くなるまで貰っておりました。彼女は私達の励ましの友でした。偉大なクリスチャンであり、愉快な仲間でした。あの友情の橋を再び開くことは喜ばしい出来ごとですし、ことに私達、幸いにも彼女を知り得た者にとっては嬉しいことです。”

 その五年後に、高田敏子は第二の故郷へ最後の訪問を行っている。ストリクランド教授は、その夏インディアナ大学の教授団の一員として、その職を引退することになり、彼女はそのお別れの一連の行事に、ミス高田も来て参加するようにと招いたのだった。日本の職業人としてやって来たミス高田は、アメリカの職業婦人がどのようにその引退に際しての計画を遂行するか……家を売り、持ち物をカリフォルニアに運び、そして生涯の仕事を閉じるに当り、すべての決定をしようとする…そうした有様を熱心に見守ったのであった。ミス・ストリクランドに対し、ミス高田は深く感動した。

 すべてが終わった時、その夏の終わりに二人の友達はブルーミングトンを去って十日間の旅行に日本へ発った。彼等は日本の文化財を見たり、各地を見物したりして楽しんだが、ミス・ストリクランドは旅行団に加わって世界一周の旅を続けるために別れて行った。

 敏子はブルーミングトンの友達に手紙を書いた。“ルース・ストリクランドがブルーミングトンにいないと思うと、何と空虚感を覚えることでしょう。でもルースがいなくても、私にとって第二の故郷はブルーミングトンです。どうぞそれを忘れないで下さい”と。

 毎年冬になると敏子は風邪と気管支炎にかかるのだったが、その年は、春が夏になってもなかなか治らなかった。彼女は時々入院したりしていたが、その後はきまって体力が弱まっていた。それで筆者は大分ためらったのであるが、それでも遂に彼女に手紙を書いて、私が日本へ行った時、ほんの短かい時間でも会えるかどうかと尋ねてみた。1970年の夏、八月のことである。それに対し敏子は再度にわたり返事をよこして、それには様々の質問をしてきたり、自分で計画を立てて、その日付さえも書き送ってきた。また自分はそれ迄には十分元気になっているから、是非箱根で幾日かを一緒に過ごしたいと言ってきた。

 そういうことで、筆者もまたあの橋を渡って日本を訪れることになり、飛行機で、灯りの眩い東京空港に着いたのは丁度夕食時の頃であった。空港にはミス高田と高橋牧師、それに若い学生が迎えに出てくれて、用意した車で隣接の都市である川崎へ連れて行ってくれた。車から出て家の前の庭へ降り立つと、高橋婦人が慇懃に迎えてくれた。

 家の中では女子の学生が日本食を準備してくれていた。敏と私と男の人達がテーブルを囲んで椅子に坐った時、もう一人の若い男の人で、教会の会計をやっている人が加わった。たっぷりとしたすき焼きの食事が終わった後私達は、ブルーミングトンでもいつも家族や親しい者同志の時にはするように、テーブルの上にお皿を置いて坐ったまま談笑した。みんな英語で話した。もっとも皆高田英語学園の卒業生なので当然のことであった。敏は私の知っている、いつもの彼女のように、そんなに活発な態度ではなく、何ごとにも物静かで、ゆっくりと振舞っていた。

 次の日、列車に三時間乗って強羅に着いた。そこは箱根国立公園の中の一つの村である。公園の規模は大きいので、その中には山や都市、村や農場や一般の人の所有地があり、また五つの大きな湖も含まれていた。あの聖なる山「富士山」に何か悪い影響のないよう、政府がこの地域を管理しているのである。

 私達が強羅ホテルに入ると、予約しておいた洋館の部屋はもうふさがっているとのことで、私達は日本式の部屋へ入ることになった。そこを私は「新婚の部屋」と呼んだ。それは四階にあって大きなポーチが開け、景色が展望できるようになっていた。そこへ入る前に私は重い靴を脱いで毛糸の靴下をはき、敏も平らなかかとの無いスリッパをはいてその畳の部屋へ入って行った。畳は藁の芯が入っていて歩くとゴムのように感じられた。敏は靴を脱いだ私の足の気持ちよさそうなのを見てとったようで、家へ帰ってからも部屋では柔らかいものをはいたらどうかと言った。

 部屋にはほとんど家具はなく、あっても膝くらいの高さのものだった。戸は引き戸になっており、壁ぎわに押入があってそこへ着物や蒲団を入れるようになっている。その蒲団を床に敷くとベッドになるわけである。床に敷いた寝床に寝た時、私は何とも言えない安心感と快さを感じた。

 私達の部屋のうち一番大きい部屋は赤い絨毯を敷いた硝子張りのバルコニーに通じていて、外はホテルの横から後側へかけて広がっている庭を見下ろせるようになっていた。少し雨の降った後で、午後の陽の光が木々の葉の上にきらきらと光っていた。

 その日の午後、ミス高田の親しい友人が二人、共に休暇を過そうとして到着した。それはミス田部井と甥の河村氏だった。ミス田部井は英語は話さなかったけれど聞くことは解っていた。河村氏はニューヨークとロスアンゼルスの商社に何年か行っていたことがあり、流暢に英語を話した。

 四日間はまたたく間に過ぎた。晴れた涼しい午後私達は車で山道をドライブし、途中大きな湖や村々などを通って行った。そして最後に強羅について、小さいけれどもよく整ったその公園を散歩し、陶芸館を見てその日の行楽を終った。

 実際のところ四日間は余りにも速く過ぎてしまったが、しかしともかく私─筆者─はミス高田のこれ迄に致る興味ある話を記録しようということになり、暇あるごとに質問と答とが繰り返された。別れる時彼女はあとは手紙で送るからと約束し、それを実行してくれた。

 それから後、私は自分の旅行の仲間に加わり、何週間かを旅して、日本と日本人について更によく知ることができた。

 その年の冬、敏はカリフォルニアのラグナヒルズからブルーミングトンの私達の所へ手紙をよこした。これが彼女のあの橋を渡っての、最後のアメリカ訪問となった。彼女はルースの新しい家を訪れており、そこで六週間休暇を過ごすことになっていた。彼女は五回目のアメリカ訪問を、日本航空のジャンボ機に乗って来た。そしてルースや他の友達とロスアンゼルス地方で過ごした話を書き送ってきた。彼女はアメリカの教養ある婦人について、熱心に観察していた。彼女はこう書いている。“私はいわゆる知識人としてのアメリカ婦人の生活の中で、種々の事柄を窺い知ることができ、それは私にとって非常に興味深いことです”と。

 ルースと敏とはラグナヒルズでできた新しい友達を招いて日本式の晩餐会を二回催した。どの会の後でも敏は、彼女が初めて通ったミッションスクールのことや、家庭でどのように育てられたかということなどの話をするのだった。ルースに言わせると、“彼女はラグナヒルズの友達の間でほんとうにかわいい人気者です。”と言うことだった。

 ルースと一緒にいる間、敏は川崎の建物の二階にもうひと部屋子供達のために大きな部屋を建て増すことを考えた。彼女はブルーミングトンの友達にもそのことを書き送って、“ルースはそれを直ぐにやれというのです。そうすれば私の川崎での仕事も丁度一段落つくと思うのです。”と言った。


 第十九章 安らかな別れ (100頁)

 アメリカで休暇を過ごしたミス高田は帰国すると直ちに授業を始めた。彼女はまた新しい教室を作る計画を立て始めたが、それは案外早く実現の運びとなり、間もなく銀行に相談したところ、銀行では必要以上のローンを貸してくれることになった。建築は五月に始まり、間もなく完成した部屋は使えるようになった。ローンは十年以上の期間で支払えばよいことになった。

 夏になると手紙が来てその間の事情が詳しく書いてあり、彼女が「何故心も身体も忙しかったか」ということが分った。彼女はさらに母校であるミッションスクール・共立学園の創立百年記念式典に出席して、卒業生を代表してスピーチをしたことなども書いてよこした。1971年から72年にかけては、彼女は学校ならびに教会の責任者としてその経営にあたり、休暇の時には色々と友達と旅行に出かけたり、あるいは姪の家を訪問したりした。彼女は引き続き筆者に手紙をよこしてくれて、色々な過去の出来事を思い出すままに書き送ってきた。

 その年の九月に彼女は卒中に襲われ、言葉が不自由になり、さらに身体の一部に麻痺が起きた。彼女は八ケ月入院していたが、その間はもちろん、沢山のクリスマスカードや新年の賀状に返事を出すことはできなかった。しかし段々と彼女は書くことができるようになり、やがて消息文も書くようになって、その中に蘇えってきた過去の思い出が少しずつ書かれてあった。

 入院中、彼女は非常に悪い時でも自分のことが少しは解っていたのである。彼女はこういうことを書いている。病院では日本の言葉が話せなかったこと。そして、その当時は容態が大変悪かったので、お医者さんは彼女の言うことが何も解らなかったのである。彼女の方ではお医者さんが診察したり、あるいは前の病状の記録を見たりしながら言っていることは解ったのであるが、彼女の言うことは誰にも通じなかったのである。そのうち一人のお医者さんで、ペンシルバニア州フィラデルフィアのテンプル大学に留学したことのある人がいて、その人が話しかけた時、彼女は日本語ではなく英語で答えたのだった。そしてこんなことが二、三日続いた。そこで他のお医者さん達も英語で話すのが得意でない人は、知りたいことがあると英語で書いて見せることにした。

 その時は彼女も、どうして自分の母国語が使えないのだろうと不思議に思った。だが、その答はやっと解ってきた。英語ではたった26文字のアルファベットがあれば足りるのであるが、日本語だと48文字のほか、多くの漢字も交ぜなければならない。そこで英語で言う方が複雑な日本語で言うよりもずっと楽であり、彼女はそのことをお医者に話したのである。医師も成程と頷いて、“今迄そんなことには少しも気づかなかったけれど、今度よく研究してみて、いつかそのことを書いてみたい。”と言った。

 敏子は病院ですっかり人気者になり、若い看護婦達もよく面倒をみてくれたし、英語を教えてくれと言ってきた。その同じ医師がアメリカへ二週間程会議があって出かけて行った。帰ってきた時、彼は診療室へ行くよりも先に敏子の所へ来て見舞ったのである。その頃までには彼女は日本語で話せるようになっていたので、それを聞いた医師は、“いつ、どうやってそんな美しい日本語を話せるようになったのですか?”と言った。彼女は、お医者様にはいつも丁寧な言葉で話すようにしているのだと説明した。

 それから彼女は手紙にこう書いてきた。“エルシーさん、これで見ても分るように、あなたの国の言葉はほんとうに誇ってよいものですよ。話しやすいし、言っていることが人にも分りやすいのです。”と。

 1973年の秋には彼女は大分回復して、月曜から木曜まで、一日一時間は授業が出来るようになった。この四日間、若い生徒と一緒にいることでそれが自分を力づけているし、毎日身体もよくなっていると彼女は主張していた。しかし、心の方の休まりはどうだったろうか? 彼女は手紙に“どうぞ手紙を下さい。そして私を力づけて下さい、敏。”と書いてよこした。

 彼女が私によこした最後の手紙は、1974年2月9日に書いたものだった。“私がバージニア(クロフォード)に手紙を差上げたきり、その後少しもお便りしなかったのできっと心配して下さっていたと思います。別に何事も無かったし、身体もよかったのですが、ただ何となく筆を取る元気がなくて……。朝七時に起きるのはあまり寒いので、十一時までねています。それから12時頃朝昼兼用の食事をします。朝のお祈りの時間がすむと、新聞を読みます。そして一日に、たった一時間教えるだけ。何て空疎な日々を私は送っているのでしょう!”

 手紙にはそれから子供時代のこまごまとした出来ごとが色々と書いてあった。ミッションスクールの女学校で彼女は年も身体も一番小さかったこと。土曜日の午後には他の生徒も一緒に外出を許されていたこと。生徒達が、第一天国、第二天国、第三天国と呼んでいる丘へ彼女は行きたかったこと。厳格な校長先生が敏子を呼んで、「天国」はどうだったかと尋ねたこと。彼女はその丘でほんとうに楽しく遊んで来たのだった。ミス・グロスビーは、天国という言葉が敏子には本当に解っていないのだと気づくと、思わず彼女の小さな手を自分の大きな手の中に入れて、“いつかあなたは本当の天国へ行くのですよ。そこはあなたが今日行ってきた天国よりずっと美しい処です”と言った。いつも威厳をもって近づきにくいミス・グロスビーが、その時はその小さい少女にキスをしたのだった。敏子にとって、生れて始めてのキスである。それから後というもの、二人の気持は通い合った。

 敏の手紙の終りにはこう書いてあった。“もしこのようなものでよろしかったら、いつでも書きますから……”と。

 1974年の四月一日、高田敏子は突然発病すると病状は重く、身体の一部が麻痺を起こした。主治医の松田医師が来て手当てをするとそのまま二、三時間眠っていたが、その間高橋牧師が傍にずっとつき添っていた。彼の手紙によると、“先生はそれからとうとう意識が戻らないまま、午後2時30分に永眠されました。ほんとうに安らかな臨終で、私達にはそれが大きな慰めでした。”と。

 葬儀はすべて彼女の世話になった人達が集って準備をし、取り行なわれた。彼女は生前親しかった人々がいっぱい整列して見送る中を、あの教会の庭を通って運ばれて行った。その庭は、神が自然の世界をいかに美しく、平和に成し給うかを物語る象徴だったのである。

 このようにして高田敏子は家の人々、学校の人々、そして教会の人々と共に暮らしてきたこの世から天国へ発っていった。彼女の遺骨は先祖代々の墓所に埋葬された。そこは両親始め先祖の霊が眠る処であった。

 彼女は恵まれた子供時代を送った。

 彼女は、自由を愛するクリスチャンの家で育ち成人した。

 彼女は二ヵ国の言葉の指導法を修め、且それに熟練した。

 彼女はその生涯において、日本の善きものと、アメリカの善きものとを交じわらせ、自ら聖なる仲介者となった。

 彼女を知るすべての者は心の豊かさを授った。

 彼女は注意深く、若い日本のクリスチャンを援助し且育てることに資するため、高田学園奨学金制度を設けておいた。

 毎年三月の最終日曜日は、故高田敏子の記念礼拝をすることに定められている。多くの人々が、常に彼女の精神を継承することを求めて止むことのないよう、切に祈る。


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