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「旅人イエス」 ( 1- 5)

「旅人イエス」 ( 6-10)



 「旅人イエス」 (1)

 さて、私たちの間で成し遂げられた事柄について、最初からの目撃者たちと御言葉の奉仕者たちとが私たちに伝えた通りに、物語に書き連ねようとして多くの人々が手を着けましたが、テオピロ閣下よ、私もまたすべての事を初めから詳しく調べてきましたので、ここに、それを順序正しく書きつづって、あなた様に献呈することに致しました。それによって、既に学ばれた事が確実なものであることを知っていただきたいためであります。
              ルカ福音書 1章1〜4節

 

 川崎教会恒例の「牧師の夏休み」の間に、松永晃子姉の受洗があり、原美由紀姉の転入会がありました。またゴスペルグループのお仲間である伊藤由紀姉、鈴木祥江姉、横田敏子姉などが礼拝に出席されるようになりました。また
昨年から中村イツ子姉と生方貴美子姉が礼拝のメンバーに加えられました。こうして新しい人たちが増し加えられて、古いメンバーたちと一緒に聖書の学びを進められますことは、誠に喜ばしいことであり、感謝すべきことでありま
す。このすべては、主なる神さまのお導きによることです。

「父上が私に与えて下さる者は皆、私の許に来るであろう。そして、私の許に来る者を、私は決して追い出すことはない」(ヨハネ6・37)

 善き牧者なる主イエス・キリストは私たち一人一人を、彼の羊の群れに加えて、守り、導き、養って下さいます。
 私たちは足掛け3年に及ぶ「黙示録の世界」の旅を終えました。ダニエル書から始めてヨハネ黙示録を学び通しました。多くの未知との遭遇を経験し、新しい発見をいたしました。聖書の黙示思想を習得できたことは何よりの収穫でした。福音書やパウロの言葉の根底に黙示思想があります。これなしに新約聖書の言葉の理解は不可能です。
 
 
「幸いなるかな、貧しき者! 神の国(支配)は君たちのものなのだから」(ルカ6・20) 
「赤貧洗うがごとき」貧しい生活は、どう考えても幸せではありません。しかし黙示思想という「鍵」を使えば、簡単にこの難問が解けるのです。即ち、終末が来ると、この世のすべての者の立場が逆転するからです。
「災いなるかな、富んでいる君たちは! 君たちは慰めを受けてしまっているのだから」(ルカ6・24)
 

 さて私たちは今日から新しい「旅」に出発します。私たちは思想の世界の「旅人」なのです。そのタイトルを最初、「ルカ福音書の世界」としましたが、後で「旅人イエス」に変更しました。ルカ福音書と使徒行伝の中を旅する「旅人イエス」の後に従って、私たちはこれから旅に出ます。ルカは優れた文章の画家なのです。ルカが描くイエスは、神の福音を携えて、ガリラヤからエルサレムへと旅をします。そしてエルサレムで十字架につけられて殺されます
が、3日目に復活して、天に上げられます。

 そこまでが前篇のルカ福音書の範囲で、それから後篇の使徒行伝では、天に上げられたイエスは、聖霊と成って弟子たちの上に降り、彼等を彼の代行者として、エルサレムからユダヤとサマリヤの全土、更にはローマへと、キリストの福音を伝える旅を続けます。

 そして旅人イエスは全世界を巡って、今日、地の果てなる日本にまで旅をされて来て、私たち一人一人に出会って下さったのです。今日ここに御出席の皆さんは、各々の人生の途上で、旅人イエスに出会っているのです。
 

 アフリカの聖者と呼ばれ、ノーベル平和賞を受賞したアルバート・シュヴァイツアー博士は、3巻に及ぶ「イエス伝研究史」を書き著わしましたが、その最後に、一つの感動的な詩を書き記して、結論としています。それは彼自身の信仰告白であるのです。
 
 湖のほとりで、彼をなにびととも知らなかった人々を目指してイエスが歩み寄ったように、イエスはまたわれわれの方にも、見知らぬ人、名なき者として歩み来る。彼はわれわれにもまた「私に従って来なさい」との同じ言葉を語り、われわれの時代において彼の解決すべき課題を、われわれに示してくれる。彼は命じる。そして彼に従う者には、賢者にも愚者にも、平和、労役、闘争、苦難において、彼等が彼との交わりによって体験されるものを通して、自
己を啓示する。かくて人々は、口に言いあらわし難い秘密として、彼のなにびとであるか、を経験するであろう...
(シュヴァイツアー著作集 第19巻)

 
 シュヴァイツアーは30代にして神学者、哲学者、音楽家として既に著名な存在でしたが、アフリカの黒人の悲惨な情況を知った時に、神の愛を説教するのではなく、それを実践するために、一医学生となって医学を学び、医者と成って、アフリカの原生林の中へ入って行きました。彼は確かに「旅人イエス」に出会って、彼から直接命令を受けたのです。そのことを哲学者森有正は「内面的な促し」と言っています。

 マザー・テレサも又、修道女としてインドで女学校の教師をしていて時に、「貧しい者の中の最も貧しい者に仕えよ」と言うキリストの御声を聞きました。しかしそのような有名人ばかりでなく、彼は私たち一人一人にも出会って、人生において果たすべき役割を与えて下さるのです。
「イエスが与えて下さった、この私の小さい光を輝かそう」(ゴスペル・ソング) 

「君たちは世の光である」(マタイ5・14)と、イエスは言いました。「一隅を照らす、これ国宝なり」と伝教大師は教えました。旅人イエスに出会うことによって、私たちは本来の自己自身に目覚めて、ライフ・ワークを発見するのです。その発見に比べたら金儲けなどは実につまらないことです。
 

 イエスの旅は宮本武蔵のような武者修業の旅ではありません。西行や芭蕉のような風流を求める旅でもありません。また多くの旅行者のようなビジネスや物見遊山のための旅でもありません。イエスの旅は、アフェシスの旅です。

「アフェシス。去らせること、解放、釈放、自由を与えること、ゆるし、赦
免...」(新約聖書ギリシア語小辞典 織田昭編) 
「行って、君たちが見聞きしていることをヨハネ(獄中にいる洗礼者)に報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人は清まり、耳しいは聞こえ、死人は生き返り、貧しい者は福音を聞かされている。私につまずかない者は、幸いである」(マタイ111・4〜6)

 イエスの旅は、彼が出会うすべての人に、罪の赦し、病苦からの解放、あらゆる束縛からの自由を与えるためのアフェシスの旅でした。
 ヨルダン川でバプテスマを受けた後、イエスはユダの荒野に入り、そこで悪魔の試みにあい、これに勝利して、神の霊の力に満たされて、ガリラヤに帰り、故郷の町ナザレの会堂に入って、福音宣教活動の第一声を宣言しました。

「主の霊が私の上に臨む。貧しい者たちに福音を告げ知らせるために、主は私に油を注がれた。主は私を遣わされた。それは、囚われ人が解放され、盲人に視力の回復を宣べ伝えさせるため、打ち砕かれた者に自由を得させ、喜ばしき主の年を宣べ伝えさせるためである」(ルカ4・18〜19)

 
  著者ルカは、この福音書の冒頭に「テオピロ閣下」への献辞を宣べています。使徒行伝も同じ人物に献呈されています(1・1) テオピロとは「神の友」という意味です。彼が実在の人物であったか、ルカが造り出した架空の
人物であったかは、誰にも分かりません。とにかく彼はローマの高官でキリスト信者でした。この一事だけで、ルカ福音書の世界と、ヨハネ黙示録の世界とは、全然異なった世界であることが分かります。

 黙示録では、ローマの権力は神に敵対的な「獣」でしたが、ルカ福音書ではそうではなく、ルカはキリストの福音がローマの世界の中で、広まり、発展して行くために、この宗教が決してローマにとって危険有害なものではないことを証明しようと努めている
のです。その意味でこの福音書は護教的な色彩が強いのです。

  2002年 9月 1日 聖日礼拝説教

 「旅人イエス」 (2)
 

 さて、私たちの間で成し遂げられた事柄について、最初からの目撃者たちと御言葉の奉仕者たちとが私たちに伝えた通りに、物語に書き連ねようとして多くの人々が手を着けましたが、テオピロ閣下よ、私もまたすべての事を初めから詳しく調べてきましたので、ここに、それを順序正しく書きつづって、あなた様に献呈することに致しました。それによって、既に学ばれた事が確実なものであることを知っていただきたいためであります。
              ルカ福音書 1章1〜4節

 

 非常に暑くて長い夏でした。世界的な異常気象による自然災害、洪水と旱魃、山火事の多発、台風の連続、多数の死者と莫大な損害...。その原因は自然的なものであるか、人為的なものであるか? 地球が温暖化しているのは確実です。今、南アフリカのヨハネスブルグで環境開発サミットが開かれていますが、先進国と開発途上国との間で利害が激しく対立しています。地球とその上に生きている人類や動物やあらゆる生物の将来が心配です。「神は人間を御自身の似姿に造られた。男と女とを御自身の似姿に造られた。神は彼等を祝福して言った。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を治めよ。海の魚、空の鳥、地
の上を這う生き物をすべて治めよ』」(創世記1・27〜28) 神の似姿に造られた人間は、地球環境を守ることを委託されているのです。
 ルカの名前は、日本では聖路加国際病院で知られています。ルカはパウロの伝道旅行の同伴者で、医師でした。
「愛する医師ルカとデマスとが、君たちによろしくと言っています」(コロサイ書4・14) この他2個所にルカの名前が出てきます(ピレモン書24節、第二テモテ書4・11)

 そして伝統的には、この医師ルカが第三福音書の著者である、とされてきましたが、現代の聖書学者の多くはそれに懐疑的です。

「この『ルカ』が第三福音書と使徒行伝の著者であるという伝承は二世紀後期の護教教父イレナイオス以前に遡るのは困難であろう。福音書にも使徒行伝にも、このルカを著者とする根拠に欠ける。イレナイオス『異端に対して』第三巻1・1に『パウロの伴侶ルカは、彼(パウロ)の宣べた福音を一つの書にしたためた』とする。これは多分マルコ福音書をペテロの宣べた福音として弟子マルコの作とする護教的傾向に端を発するであろう...」(新共同訳新約聖書注解)

 同様に彼らは、マタイ福音書の著者はマタイではなく、ヨハネ福音書の著者はヨハネではない、と考えます。昔は「使徒的権威」を重んじて、福音書の記述が確実なものであると主張するために、「キリストの出来事」の直接の目撃者である12使徒に結び付けようとする傾向がありました。

 しかし現代の聖書批評学者たちは実証的な研究を重ねて、従来の固定観念を一つ一つ突き崩しています。そのような傾向に対して保守的な牧師や教会関係者は危機的な脅威を感じていますが、私は、真実が姿を現わすためには、必要な努力であると思います。

 四福音書はおのおの、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが本当の著者ではない、と言われても、一向に差し支えありません。第1世紀のどこかの教会に無名の著者たちがいて、これらの貴重な文献を残してくれたと思えば、喜びも倍増するではありませんか。

 新約聖書の四つの福音書の中、最初の三つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は共観福音書と呼ばれています。イエス像の見方に共通点が多いからです。それに対してヨハネ福音書は別格として第四福音書と呼ばれています。他の福音書のイエス像とは著しく異なるからです。

 
 四つの福音書は、四人のカメラマンが、各々別のアングルからイエスの姿を撮った四枚の写真のようなものではありません。四人の画家が、各々自分の好みに合わせて描いた四枚のイエス像のようなものです。その四枚の絵の中で、ナザレのイエスの実像を最もよく保存しているのは、最古の福音書であるマルコ福音書である、と言われています。

「資料というものは、そこに書かれてある時代よりも、書かれた時代そのものを反映しているのである。モーセの伝説も、バビロニア時代の人々がモーセをどう考えていたか、ということを解くカギとして考えた方がよさそうである。ちょうど神武天皇の伝説が、『日本書紀』の書かれた八世紀初めの日本人の考え方を解くカギであるのと同じように」(三笠宮崇仁)

 これは大切な指摘です。四つの福音書はAD28〜30年頃に生きた歴史上のイエスの姿を語っているのではなく、それらは福音宣教のために書かれた書物であるために、マタイならマタイ、ルカならルカの時代の教会の実状に合わせて、伝承された資料を着色したり、編曲したりして編集されたのです。このようなことが分かってきたのは、この200年ほどの聖書研究の積み重ねの成果です。しかし大多数の教会では依然として昔ながらの、書かれたままのことを客観的な事実として説教しています。
 

 「私たちの間で成し遂げられた事柄」とは、イエスの出現と働きと十字架と復活と昇天で、いわゆる「キリストの出来事」です。「最初からの目撃者たち」とは、生前のイエスと関係のあった人たちで、主にイエスの直弟子たちの
ことです。「御言葉の奉仕者たち」とは、福音の伝道者たちのことです。彼等がルカの時代(80年代)の人々に多くの伝承を口伝か文書で残していました。現在最も確実とされている学説はいわゆる「二資料説」です。

 マルコ福音書が最初に書かれた福音書で、70年頃と言われています。福音書という文学形式を創造したのは、マルコ福音書の著者です。マタイとルカはマルコ福音書を主な参考資料として利用しています。マタイとルカはマルコのパラダイム(枠組)に従ってキリストの生涯を物語っています。更にマルコ資料に加えて、Q資料と呼ばれているイエスの言葉集を利用しています。

 Q資料は、マルコには殆ど無くて、マタイとルカが共通して利用しているものです。その二つの資料に、マタイは彼独自の資料(M資料)を加えています。それはマタイの教会に伝承されていた資料や彼自身が収集した資料にマタイが手を加えたものです。同様にルカも彼の福音書の骨格(枠組)にマルコ資料を用い、それにQ資料とルカ独自の資料(L資料)とを加えて肉付けしています。

 ヨハネ福音書は全く独特の神学でイエス像を描いているもので、歴史的な信憑性には乏しい福音書です。
 以上が「最初からの目撃者たちと御言葉の奉仕者たちとが私たちに伝えた通りに、物語に書き連ねようとして多くの人々が手を着けましたが」という言葉の内容です。
 ルカの机の上にはマルコ福音書とイエスの言葉集(Q資料)とルカ自身が収集した特殊資料とがありました。
「テオピロ閣下よ、私もまたすべての事を初めから詳しく調べてきましたので、それを順序正しく書きつづってあなた様に献呈することに致しました」 ルカは先人たちが伝えたものには不満足でした。それらをそのまま自分の教会で使用したくはなかったのです。それは他人の洋服をそのまま着ているようで、何かチグハグなものを感じたのでしょう。ルカは彼の教会の実状に合うように、彼独自の福音書を仕上げました。

 
 マルコ福音書が描くイエスにはゴツイ感じのナザレの田舎大工といった風情が残っています。母マリアも同様です(3・21、31〜35) マルコは「処女降誕」を知りませんでした。マタイはそれをリフォームして、旧約聖書
の預言を成就した神の子・キリストの姿に描きました。マタイの教会の主な構成員はユダヤ人でした。他方、ルカの教会員たちは主に異邦人でした。それでユダヤ教的な律法とか預言の成就とかいうものを殆ど省いて、ローマ世界の人々にも感銘を与えるヒューマニスト・イエスを描きました。小さい者、貧しい者、罪人や異邦人の友、女性たちの理解者なるイエスがそこに描き出されています。

  2002年 9月 8日 聖日礼拝説教

 「旅人イエス」 (3)

 

 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の祭司で、名をザカリアという者がいた。また、その妻はアロンの娘の一人で、名をエリザベツといった。そして二人とも神の御前に正しい人であって、主のすべての戒めと規定とを落ち度
なく守っていた。しかし彼らには子供が無かった。エリザベツは不妊の女であり、また二人ともすでに老齢であったからである。
 さて、ザカリアは、その組が当番になり、神の御前で祭司の務めをしていた時、祭司職の慣例に従ってくじを引くと、彼には、主の聖所に入って香をたく役目が当たった。香をたいている間、多くの民衆は皆外で祈っていた。する
と、主の天使が現われて、香壇の右側に立った。
             ルカ福音書 1章5〜11節

 

 去年の9月11日の同時多発テロから1年が経ち、その真相が次第に明らかになってきました。「窮鼠 猫を噛む」 イスラエルの軍事力がネコであり、パレスチナ過激派の自爆テロがネズミです。それと並行して、アメリカの軍事力がネコであり、オサマ・ビンラディンの率いるアルカイダ(アラビア語で拠点、基盤の意)のテロ活動がネズミです。去年の多発テロによって世界貿易センターの双子のビルが倒壊したのは正に「窮鼠 猫を噛む」行為でした。ネコに象徴されるものは、アメリカ、イスラエル、資本主義社会、先進諸国です。ネズミは、パレスチナ人、過激派イスラム教徒、開発途上の諸国です。60年前の第二次世界大戦では「持てる国」と「持たざる国」との対決でしたが、現代はその対決の再現です。今、ジョージ・ブッシュ大統領がやっていることは、ネズミを絶滅させることによってアメリカの世界支配(パックス・アメリカーナ)を確立することです。それは正しい道ではありません。正しい道は、ネズミとネコが平和共存して行く道を探し求めることです。それには先ず、双方が武器を捨てることです。ニューヨークの国連ビルの正面にある石碑には預言者イザヤの言葉が刻まれています。「彼らは剣を打ち変えて鋤とし、槍を打ち変えて鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(2・4) 私たちはこうして聖書を学ぶことによって、平和への道を歩んでいるのです。

 
 新約聖書27巻の中で最も早く書かれたのはパウロの手紙で、50年代のことでした。パウロは「処女降誕」を知りませんでした。
「時が満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ...」(ガラテヤ4・4)
 最初の福音書はマルコ福音書で、65〜70年に書かれました。イエスが刑死したのは30年です。それまでに何故福音書が書かれなかったのか、と不思議に思いますが、初期の弟子たちはその必要を感じなかったからです。それは何故か?
 彼らは間もなく世界の終末が来て、主イエスが再臨し、最後の審判が行われ、新天新地が出現する、と信じていたからです。

「『然り、私はすぐに来る』 アーメン、主イエスよ、来て下さい!」(ヨハネ黙示録22・20)
 しかし待てど暮らせど主の再臨はなく、他方、その間に福音の伝道が進展し、パレスチナからローマ世界にまで及び、信者の数が増加してゆき、初代の弟子たちが次々に亡くなっていった時に、イエスとはいかなる人物であり、何を語り、何を行なったか、ということを記録しておくことが必要となって、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの正典四福音書が次々に生み出されました。
 その他に沢山の外典福音書も書かれましたが、それらは異端思想で書かれたり、大衆小説的な要素があったりして、正統な教会で、信徒の信仰と道徳の規範(canon)としては相応しくないものでした。しかし外典を読むことは、正典を理解することに役に立ちます。
 例えばヤコブ原福音書には、ヨセフがマリアの処女性を証明するために産婆に調べてもらう話がありますが、その話を書くことによって、大衆に処女降誕が確かなものであったことを信じさせる目的がありました。しかしそれはあまり品位のある話ではありませんでした。 
 
 マルコ福音書を生み出した教会には、処女降誕の信仰がありませんでした。他方、ヨハネ福音書の著者にとっては、処女降誕は中途半端なものでした。「そして言葉(ロゴス)は肉と成って、私たちの間に住居した」(1・14)
 
 ここには人間(男と女)の介入の余地はありませんでした。処女降誕の記事はマタイ福音書とルカ福音書に記されていますが、それらは元来、別々の伝承によるものでした。今は一緒にまとめられて「クリスマス物語」とされていますが、元来は各々異なる物語でした。

 マタイ福音書1〜2章(M資料)によれば、ヨセフとマリアはベツレヘムの町の住民であり、イエスの誕生後、ヘロデ王の追求を逃れてエジプトへ行き、ヘロデの死後、帰って来たが、ユダ族の地ベツレヘムには行かず、ガリラヤ
のナザレの町へ行って住み着きました。「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」という預言が成就するためでした。
 他方、ルカ福音書1〜2章(L資料)によれば、マリアとヨセフはガリラヤの町ナザレの住民であり、ローマ皇帝の命令による人口調査のための登録のために、ヨセフの出身地であるユダヤのベツレヘムの町へ行き、宿屋が満員であったために、家畜置場の洞窟の中で、マリアがイエスを産んで、飼葉桶に寝かせた、と書いてあり、そこにはヘロデ王の迫害も、エジプトの地への避難もありません。
 四つの福音書が一つにまとめられて教会の正典とされたのは2世紀以後のことですから、マタイの物語とルカの物語とが合体して、不思議な星に導かれて来た東方からの博士たちや、天使のお告げを聞いて救い主を拝みに来る羊飼いたちや、天使の大軍の讃美の歌声などが上手に配合されて、美しいクリスマス物語が出来上がったのは、ずっと後世のことでした。
 

 だから価値が無い、というのではなく、それはキリスト教徒の信仰が生み出した美しいファンタジーであるというのです。人間の生活にとって必要なものはお金や食べ物ばかりでなく、夢や空想や詩や音楽や神話なども大切です。子供も大人もディズニー・ランドが大好きな由縁です。現実と神話とが絶妙に混合してクリスマス物語が構成されているのです。それはキリスト教徒ばかりでなく、全人類の文化遺産の一つなのです。
 
 さて、ルカの描く誕生物語(1〜2章)に注目いたしましょう。これはルカの特殊資料です。面白いことに、二つの誕生物語が交差して描かれています。新共同訳聖書のタイトルによると、

「洗礼者ヨハネの誕生が予告される」1・5〜25、
「イエスの誕生が予告される」1・26〜38、
「マリア、エリザベツを訪ねる」1・39〜45、
「マリアの賛歌」1・46〜56、
「洗礼者ヨハネの誕生」1・57〜66、
「ザカリアの預言」1・67〜80、
「イエスの誕生」2・1〜7、
「羊飼いと天使」2・8〜21、
「神殿で献げられる」2・22〜38、
「ナザレに帰る」2・39〜40、
「神殿での少年イエス」2・41〜52。

 
 ヨハネの物語は常に先行し、イエスの物語がそれに後続しています。そして後者は前者に比べて常に優位におかれています。これはイエスの公生涯において、バプテスマのヨハネが先駆者的な役割を果たした歴史的な事実が、二人
の誕生物語に反映されて描かれているのです。どこまでが歴史的事実で、どこまでが伝説であるかは誰にも分かりませんが、聖地に行くと、面白いことに、その一つ一つに、教会や聖所や遺跡などがあるのです。
 

 洗礼者ヨハネの父親の名はザカリアで、エルサレム神殿の祭司で、妻のエリザベツも祭司の娘で、二人とも子供ができないままで老齢に達していましたが、奇跡的に男児が与えられます。そのような例は旧約聖書にいくつかあるの
です。それは神の御業であることのシルシなのです。

  2002年 9月22日 聖日礼拝説教



 「旅人イエス」 (4)
 

 さて、六か月目に、天使ガブリエルが、神からガリラヤのナザレの町の一人のおとめの許に遣わされた。彼女はダビデ家の末裔であるヨセフという名の男と婚約していた。そのおとめの名はマリア。天使は彼女の所に来て言った。
「おめでとう、恵まれた女よ、主があなたと共におられる」
 しかし彼女はその言葉に驚き、この挨拶はいったい何のことだろうと、思いめぐらした。すると、天使は言った。「恐れるな、マリアよ。あなたは身ごもって、男の子を産むであろう。その子の名をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者と成り、いと高き者の子と呼ばれるであろう。
また、主なる神は、その先祖ダビデの位を彼に与え、そして彼は、ヤコブの家を永遠に支配し、彼の王国は終わることがないであろう」 そこでマリアは天使に言った。「どうしてそんなことが起こり得ましょうか、私は男の人を知
りませんのに」 天使は答えて言った。「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたを覆うであろう。それ故、生まれ出る者もまた聖なる神の子と呼ばれるであろう。見よ、あなたの親戚のエリザベツも、老年にも拘わらず、男
の子を宿している。不妊の女と言われていたのに、はや六か月になっています。神が共にいませば、不可能なことは何もありません」 マリアは言った。「ご覧下さい。私は主のはしためです。あなたのお言葉どおりに、私に成りま
すように」 すると天使は、彼女から離れて行った。
            ルカ福音書 1章26〜38節

 

 いま日本で最もショッキングな話題は、北朝鮮の工作員による日本人の拉致事件です。小泉純一郎首相が北朝鮮を訪問して金正日総書記と会談した時に、10数人の日本人を拉致したことと、その中の8人が既に死亡している事実を知らされ、謝罪されました。事件の真相の解明はこれからですが、肉親を拉致され、恐らくは殺された家族の無念はいかばかりでしょう。中学生が学校からの帰り道で、あるいは母娘が買い物をした後に、または恋人たちが海辺を散策している時に拉致されたり、また若者が外国の街角でだまされて、北朝鮮に連行され、そこで恐喝されたり、洗脳されたりして、邪悪な国家目的のために利用されたのです。私たちはいつ、どこで、そのような日常性の中のブラック・ホールに落ち込むような目に遭うかも知れません。まことに現代は陰謀と暴力とが横行しているテロリズムの時代です。

 
 イエスの公生涯の前の時代を「福音前史」と言いますが、私たちは今、ルカ福音書1〜2章に記されている福音前史を学んでいます。そこには洗礼者ヨハネと主イエスの二つの誕生物語が交差して描かれています。そしてその両者の関係は常に、先導者と主役の関係にあります。
「花嫁(新しいイスラエル=教会)をもつ者は花婿(主イエス)である。花婿の友人(洗礼者ヨハネ)は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びは私(ヨハネ)に満ち足りている。彼は栄え、私は衰えねばならない」(ヨハネ3・29〜30)
 これはその両者の役割を、最後の預言者(ヨハネ)と預言の完成者(イエス・キリスト)と解釈した初代教会の思想の言葉です。その関係が誕生物語に投影されているのです。ヨハネの教団では恐らくヨハネがメシアか最大の預言者であって、イエスはその弟子の中の一人とされていたことでしょう。またイスラム教では、最後で最大の預言者はムハンマド(マホメット)であって、彼以上の存在を認めていません。
 老祭司ザカリアがエルサレム神殿の聖所の中で祈っていた時に、大天使ガブリエルが現われて、老妻エリザベツが男の子を産むことを告知されます。その先例はアブラハムとサラの場合に見られます。アブラハムが旅人を手厚く接待したところ、その旅人は天使であって、老妻サラに男の子が生まれることを告知されました。
「私は来年の今頃、必ずここに来ますが、その頃には、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」(創世記18・10)
 老夫婦の間に子供が生まれるということは、常識では考えられないこと、即ち奇跡ですが、聖書の奇跡は神の御業であると考えられています。以下は注解
書の解説です。
 天使ガブリエルによるこの予告の文学類型は、マリアへの予告と共に、旧約における神またはその使いの出現形式、その中でも特に
誕生告知、
イサク(創17〜18章)、
イシマエル(創16章)、及び
サムソン(士13章)
 などに見られる形式に則っている。これらの誕生予告には一定の文学構造が現われる。
 出現ー恐れの反応ー使信(名の呼びかけ、恐れるな、との慰め、子の誕生予告、子の名と使命)ー反論ーシルシの授与ーである。
 
 ...ルカがこのような旧約の出現形式をヨハネの誕生の予告に用いる理由は、ヨハネの使命が神からのものであること、しかも、旧約からの神の計画であることを表わす。その場合、ルカにとってヨハネが旧約のイスラエルと新約のイエスとの橋渡しの役割を果たすのであれば(16・16)、当時のユダヤ・キリスト教徒にとってイスラエル史の初めであるアブラハムへの約束の子の誕生予告の形式をヨハネ誕生においても踏むのは当然であろう。実際、ヨハネ誕生の予告とその実現の時における「喜び」(1・14、58)は、アブラハムの妻サラの喜び(創21・6)を暗示する。紀元前後のユダヤ文学において、このサラの喜びはメシア思想の一つの重要なテーマになっているので、この関連は充分可能である。(新共同訳新約聖書注解)

 神の介入によって、老女サラがイサクを産み、同じく老女エリザベツがヨハネを産んだのならば、神の子イエスが生まれるためにはそれ以上でなければならぬ。即ち、神の子イエスは汚れなき処女マリアから生まれた、という考えがルカの教会とマタイの教会にはあったのでしょう。その話を更に先鋭化させたのが2世紀に成立したヤコブ原福音書(外典)です。それはカトリック教会の教義である「無原罪の御孕り」が、イエスの受胎の場合と同様にその母マリアにも適用されているのです。
以下は八木誠一氏の解説です。
 
 ...内容的には「いとも聖なる、神の母にして永遠の処女なるマリアの誕生の物語」という副題が示すように、マリアの奇跡的誕生、神殿での養育、神託による男やもめヨセフとの縁組み、ベツレヘム近郊の洞窟でのイエスの出産、を語っている
...マリア伝説は彼女の清らかさを描き出す。マリアは富裕で敬虔な夫婦に授けられた子、一切の穢れから遠ざけられて成育し、皆に愛され祝福され、美しい神殿の垂幕を織り、ヨセフの婚約者として処女のままイエスを産んだ後も、いつまでも処女としてとどまった...。

 
 そのマリア伝説を根拠にして、現在、エルサレム旧市街を囲む城壁のうち
東側にあるライオン門(別名ステパノ門)を入った直ぐ右側に聖アンナ教会があります。そこがマリアの両親のヨアキムとアンナ夫妻の住居跡であり、その
教会の地下聖堂にマリアが生まれた場所とされている洞窟があります。また聖アンナ教会の直ぐ先にはベテスダの池の遺跡があります。
 他方、ガリラヤの町ナザレには、現在、美しい受胎告知教会が建っています。その地下にマリアの家の跡とされている洞窟があり、その辺りで大天使ガブリエルがマリアに現われて、彼女に神の子イエスの受胎を告知した、と言わ
れています。しかしここでは、マリアは一人の貧しい田舎娘であるにすぎません。
 今日のテキストで、天使がマリアに神の啓示を告知します。その中で、「主が共にいます」と二度(28,37節)語っています。マリアは人間の常識の言葉で対応していますが、終に、神の御意思に自分自身を明け渡します。38節のマリアの言葉は、信仰の言葉です。

           2002年 9月29日 聖日礼拝説教



 「旅人イエス」 (5)
 

 その頃、マリアは立ち上がり、急いで山里へ向かい、ユダの町へ行った。そしてザカリアの家に入り、エリザベツに挨拶した。エリザベツがマリアの挨拶を聞いた時、胎内でその子が踊った。その時、エリザベツは聖霊に満たされ、声高らかに叫んで言った。「あなたは女の中で祝福されたお方、あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母上が私の許に来て下さるとは、どうしたことでしょう。ごらん下さい。あなたの挨拶の声が私の耳に入った時、私の内の胎児は喜び踊りました。主がお語りになったことが必ず実現すると信じた女は、何と幸いなことでしょう!」
 するとマリアは言った。「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主なる神を喜び称えます。ご自身の卑しいはしためにさえ、御目を注がれたからです。ごらん下さい。今から後、世々の人々は皆、私を幸せな女と呼ぶでしょう。力あるお方が私に大いなる事をして下さったからです。その御名は聖く、その憐れみは世々限りなく、主を畏れる者に臨みます。主は御腕をもって力ある御業を成し遂げ、心の驕り高ぶる者を追い散らし、権力者を王座から引き下ろし、低い者を高く上げ、飢えた者を良いもので飽かせ、富める者を空腹のまま追い返されます。主は、僕イスラエルを受け入れ、憐れみをお忘れになりません。私たちの父祖アブラハムとその子孫とを永遠に憐れむと約束された通りに」
 マリアは三か月ほどエリザベツの許に留まった。そして自分の家へ帰って行った。 
            ルカ福音書 1章39〜56節

 

 日本の社会はいま、不景気の真っ直中にあります。国も県も市も、気が遠くなるほどの膨大な借金で四苦八苦しています。銀行と各金融機関も莫大な不良債権を抱えて、その処理に頭を痛めています。会社や企業は利益追求第一主義に走り、従業員の福祉厚生が疎かにされています。10数年前のバブル景気に
沸き立った頃と比べると隔世の感があります。バブル景気の頃の日本人は新興成金で、傲慢無礼で、傍若無人でした。今は天狗の鼻がへし折られたような形で、さっぱり元気がありません。この不況は、日本人が過去の過ちを悔い改めて、人間の名に相応しい生き方に目覚めるために神が与えられた試練であるかも知れません。もしそうなら、今が回心の絶好のチャンスですが、増々享楽的な方向に驀進している日本の社会の中に、その兆候が見られないのは残念です。そのような世の中で、景気が良くても悪くても、10年1日のごとくに、神を礼拝し、キリストの救いを信じ、聖書の学びを進めることの許されている私たちは、本当に幸せです。

 
 39〜45節の物語の部分は、「洗礼者ヨハネの誕生のお告げ」の部分と「イエスの誕生のお告げ」の部分とを関係づけるためにルカが導入した物語であるという。ここには二つのことが主張されている。第一に、ルカはイエスの
出来事をイスラエルの歴史に滑らかに接続させようとした。洗礼者ヨハネはイスラエルの最後の預言者であって、イスラエルの歴史に属する。しかも彼は福音の時代の先駆者としての役割を果たした人物である。イエスは福音の時代をもたらした救世主であるが、なおその誕生の有様がイスラエルの最後の預言者であるヨハネの誕生の有様と並行性を保っている。これによってイエスはイスラエルの歴史の継承者であることが明らかに示されており、従ってキリスト教とユダヤ教との間の連続性が保証されている。...第二に、洗礼者ヨハネに対するキリストであるイエスの優位性は福音前史の全体を通して主張されている...(山下次郎)  
 
「マリアは立ち上がり、急いで山里へ向かい、ユダの町へ行った」
 マリアは同じ恵みを受けた親族のエリザベツに会うために、ガリラヤのナザレからユダの山里の町へ急行しました。

「この『ユダの山里』が伝統的にエルサレムの西方7kmにあるアイン・カレムと想定されている。周囲を緑の山々に囲まれた盆地で、いかにもユダの山里という表現にふさわしいひなびた静かな山村である。
 ...ヤコブ原福音書では、ヘロデ大王が幼児殺戮を命じた際、エリザベツはその子ヨハネを救うために逃れ、山里へ上って行ったが、そのとき、山が裂けて彼女をその中に隠した、とされている(22・3)
 ...現在、小さい谷を隔てて『聖ヨハネ教会』と『聖母訪問教会』の二つの大きな美しい教会が建っている。530年頃書かれたテオドシウスの巡礼記には、エルサレムから洗礼者ヨハネの母エリザベツが住んでいた場所まで8kmの距離だったと記されている」(関谷定夫)

 
 1995年8月29日、私は4人の教会の姉妹たちを案内して、アイン・カレムを訪れました。タクシーを降り、坂道を上って、聖母マリアがエリザベツを訪れた「訪問教会」へ行きました。門を入ると、建物の正面上部に、マリアがナザレからアイン・カレムまで旅をしている大きなモザイクの壁画が見えました。また聖堂の側面には42か国語に訳されて「マリアの讃歌」(マグニフィカト)が展示されていました。美しい庭園を眺めながら、外側の階段から2階へ上がると、華やかな美しい礼拝堂に至ります。その正面の壁画には、天使や聖人たちに囲まれた栄光のマリアが描かれています。そこから狭い谷を隔てた岡の上に「聖ヨハネ教会」が見えます。訪問教会を後にして坂を下ってしばらく行くと、天然の岩清水の水汲み場があります。それは14世紀以来「マリアの泉」と呼ばれてきた泉で、アイン・カレム(ぶどう園の泉)の語源になりました。そこからまたしばらく歩いて坂道を上ると、聖ヨハネ教会の入口に着きます。その教会内部の洞窟の祭壇の下に、ラテン語で「ここで主の先駆者は生まれたり」としるされています。元来、ここが祭司ザカリアの本宅で、訪問教会は別宅の跡であった、とされています。祭司ザカリアは、当番の日にはエルサレムに詰めていて、非番の日にはアイン・カレムの自宅にいたと思われます。

 
 アイン・カレムが洗礼者ヨハネの故郷であったという伝説は、文献学的、考古学的な根拠が薄弱です。しかしそういうことにあまりこだわらずにそれらしい場所に壮麗な聖堂や聖所を造ってしまうところに聖地の凄味があります。
 遺跡には歴史的な真実と虚構とが入り混じっているのです。それは丁度、福音書と同じで、「イエスの言葉」として伝えられているものがすべてイエスの語ったオリジナルな言葉ではなく、その多くが教会の預言者の言葉であったり、教会の規則であったり、編集者の加筆であったりするのです。その極端なのが新約聖書外典で、ヤコブ原福音書もその中の一つです。
 実際、マリアはナザレからアイン・カレムまでの約120kmの距離をどのようにして一人旅をしたのでしょうか?
 それとも婚約者のヨセフが付き添って来たのでしょうか? もしそうなら、3か月以上もの間、仕事から遠ざかっていることは可能だったのでしょうか?
 

 祭司の老妻エリザベツは、遠路はるばる訪ねて来たマリアを迎え入れました。そしてマリアの挨拶の声を聞いた時、胎児ヨハネが喜び踊りました。ヨハネは既に「聖霊に満たされて」(15節)いました。胎児の踊りを感じると、
エリザベツもまた同じ「聖霊に満たされて」(41節)訪問客マリアを讃美しました。その時「私の主の母上が」(43節)と言っています。この「主」は、まだマリアの胎内にいるイエスのことです。しかしイエスを「主」と告白
することは、原始教会の信仰告白の言葉でした。「神の霊によって語る者は誰も『イエスは呪われよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことができない」(コリント第一書12・3) 

 今日の私たちも又、同じ聖霊によって、イエスを「わが主」と告白しているのです。

             2002年10月 6日 聖日礼拝説教