さて、私たちの間で成し遂げられた事柄について、最初からの目撃者たちと御言葉の奉仕者たちとが私たちに伝えた通りに、物語に書き連ねようとして多くの人々が手を着けましたが、テオピロ閣下よ、私もまたすべての事を初めから詳しく調べてきましたので、ここに、それを順序正しく書きつづって、あなた様に献呈することに致しました。それによって、既に学ばれた事が確実なものであることを知っていただきたいためであります。
川崎教会恒例の「牧師の夏休み」の間に、松永晃子姉の受洗があり、原美由紀姉の転入会がありました。またゴスペルグループのお仲間である伊藤由紀姉、鈴木祥江姉、横田敏子姉などが礼拝に出席されるようになりました。また 「父上が私に与えて下さる者は皆、私の許に来るであろう。そして、私の許に来る者を、私は決して追い出すことはない」(ヨハネ6・37) 善き牧者なる主イエス・キリストは私たち一人一人を、彼の羊の群れに加えて、守り、導き、養って下さいます。 さて私たちは今日から新しい「旅」に出発します。私たちは思想の世界の「旅人」なのです。そのタイトルを最初、「ルカ福音書の世界」としましたが、後で「旅人イエス」に変更しました。ルカ福音書と使徒行伝の中を旅する「旅人イエス」の後に従って、私たちはこれから旅に出ます。ルカは優れた文章の画家なのです。ルカが描くイエスは、神の福音を携えて、ガリラヤからエルサレムへと旅をします。そしてエルサレムで十字架につけられて殺されます そこまでが前篇のルカ福音書の範囲で、それから後篇の使徒行伝では、天に上げられたイエスは、聖霊と成って弟子たちの上に降り、彼等を彼の代行者として、エルサレムからユダヤとサマリヤの全土、更にはローマへと、キリストの福音を伝える旅を続けます。 そして旅人イエスは全世界を巡って、今日、地の果てなる日本にまで旅をされて来て、私たち一人一人に出会って下さったのです。今日ここに御出席の皆さんは、各々の人生の途上で、旅人イエスに出会っているのです。 アフリカの聖者と呼ばれ、ノーベル平和賞を受賞したアルバート・シュヴァイツアー博士は、3巻に及ぶ「イエス伝研究史」を書き著わしましたが、その最後に、一つの感動的な詩を書き記して、結論としています。それは彼自身の信仰告白であるのです。 マザー・テレサも又、修道女としてインドで女学校の教師をしていて時に、「貧しい者の中の最も貧しい者に仕えよ」と言うキリストの御声を聞きました。しかしそのような有名人ばかりでなく、彼は私たち一人一人にも出会って、人生において果たすべき役割を与えて下さるのです。 「君たちは世の光である」(マタイ5・14)と、イエスは言いました。「一隅を照らす、これ国宝なり」と伝教大師は教えました。旅人イエスに出会うことによって、私たちは本来の自己自身に目覚めて、ライフ・ワークを発見するのです。その発見に比べたら金儲けなどは実につまらないことです。 イエスの旅は宮本武蔵のような武者修業の旅ではありません。西行や芭蕉のような風流を求める旅でもありません。また多くの旅行者のようなビジネスや物見遊山のための旅でもありません。イエスの旅は、アフェシスの旅です。 イエスの旅は、彼が出会うすべての人に、罪の赦し、病苦からの解放、あらゆる束縛からの自由を与えるためのアフェシスの旅でした。 黙示録では、ローマの権力は神に敵対的な「獣」でしたが、ルカ福音書ではそうではなく、ルカはキリストの福音がローマの世界の中で、広まり、発展して行くために、この宗教が決してローマにとって危険有害なものではないことを証明しようと努めている 2002年 9月 1日 聖日礼拝説教 |
さて、私たちの間で成し遂げられた事柄について、最初からの目撃者たちと御言葉の奉仕者たちとが私たちに伝えた通りに、物語に書き連ねようとして多くの人々が手を着けましたが、テオピロ閣下よ、私もまたすべての事を初めから詳しく調べてきましたので、ここに、それを順序正しく書きつづって、あなた様に献呈することに致しました。それによって、既に学ばれた事が確実なものであることを知っていただきたいためであります。
非常に暑くて長い夏でした。世界的な異常気象による自然災害、洪水と旱魃、山火事の多発、台風の連続、多数の死者と莫大な損害...。その原因は自然的なものであるか、人為的なものであるか? 地球が温暖化しているのは確実です。今、南アフリカのヨハネスブルグで環境開発サミットが開かれていますが、先進国と開発途上国との間で利害が激しく対立しています。地球とその上に生きている人類や動物やあらゆる生物の将来が心配です。「神は人間を御自身の似姿に造られた。男と女とを御自身の似姿に造られた。神は彼等を祝福して言った。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を治めよ。海の魚、空の鳥、地 そして伝統的には、この医師ルカが第三福音書の著者である、とされてきましたが、現代の聖書学者の多くはそれに懐疑的です。 「この『ルカ』が第三福音書と使徒行伝の著者であるという伝承は二世紀後期の護教教父イレナイオス以前に遡るのは困難であろう。福音書にも使徒行伝にも、このルカを著者とする根拠に欠ける。イレナイオス『異端に対して』第三巻1・1に『パウロの伴侶ルカは、彼(パウロ)の宣べた福音を一つの書にしたためた』とする。これは多分マルコ福音書をペテロの宣べた福音として弟子マルコの作とする護教的傾向に端を発するであろう...」(新共同訳新約聖書注解) 同様に彼らは、マタイ福音書の著者はマタイではなく、ヨハネ福音書の著者はヨハネではない、と考えます。昔は「使徒的権威」を重んじて、福音書の記述が確実なものであると主張するために、「キリストの出来事」の直接の目撃者である12使徒に結び付けようとする傾向がありました。 しかし現代の聖書批評学者たちは実証的な研究を重ねて、従来の固定観念を一つ一つ突き崩しています。そのような傾向に対して保守的な牧師や教会関係者は危機的な脅威を感じていますが、私は、真実が姿を現わすためには、必要な努力であると思います。 四福音書はおのおの、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが本当の著者ではない、と言われても、一向に差し支えありません。第1世紀のどこかの教会に無名の著者たちがいて、これらの貴重な文献を残してくれたと思えば、喜びも倍増するではありませんか。 新約聖書の四つの福音書の中、最初の三つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は共観福音書と呼ばれています。イエス像の見方に共通点が多いからです。それに対してヨハネ福音書は別格として第四福音書と呼ばれています。他の福音書のイエス像とは著しく異なるからです。 「資料というものは、そこに書かれてある時代よりも、書かれた時代そのものを反映しているのである。モーセの伝説も、バビロニア時代の人々がモーセをどう考えていたか、ということを解くカギとして考えた方がよさそうである。ちょうど神武天皇の伝説が、『日本書紀』の書かれた八世紀初めの日本人の考え方を解くカギであるのと同じように」(三笠宮崇仁) これは大切な指摘です。四つの福音書はAD28〜30年頃に生きた歴史上のイエスの姿を語っているのではなく、それらは福音宣教のために書かれた書物であるために、マタイならマタイ、ルカならルカの時代の教会の実状に合わせて、伝承された資料を着色したり、編曲したりして編集されたのです。このようなことが分かってきたのは、この200年ほどの聖書研究の積み重ねの成果です。しかし大多数の教会では依然として昔ながらの、書かれたままのことを客観的な事実として説教しています。 「私たちの間で成し遂げられた事柄」とは、イエスの出現と働きと十字架と復活と昇天で、いわゆる「キリストの出来事」です。「最初からの目撃者たち」とは、生前のイエスと関係のあった人たちで、主にイエスの直弟子たちの マルコ福音書が最初に書かれた福音書で、70年頃と言われています。福音書という文学形式を創造したのは、マルコ福音書の著者です。マタイとルカはマルコ福音書を主な参考資料として利用しています。マタイとルカはマルコのパラダイム(枠組)に従ってキリストの生涯を物語っています。更にマルコ資料に加えて、Q資料と呼ばれているイエスの言葉集を利用しています。 Q資料は、マルコには殆ど無くて、マタイとルカが共通して利用しているものです。その二つの資料に、マタイは彼独自の資料(M資料)を加えています。それはマタイの教会に伝承されていた資料や彼自身が収集した資料にマタイが手を加えたものです。同様にルカも彼の福音書の骨格(枠組)にマルコ資料を用い、それにQ資料とルカ独自の資料(L資料)とを加えて肉付けしています。 ヨハネ福音書は全く独特の神学でイエス像を描いているもので、歴史的な信憑性には乏しい福音書です。 2002年 9月 8日 聖日礼拝説教 |
ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の祭司で、名をザカリアという者がいた。また、その妻はアロンの娘の一人で、名をエリザベツといった。そして二人とも神の御前に正しい人であって、主のすべての戒めと規定とを落ち度
去年の9月11日の同時多発テロから1年が経ち、その真相が次第に明らかになってきました。「窮鼠 猫を噛む」 イスラエルの軍事力がネコであり、パレスチナ過激派の自爆テロがネズミです。それと並行して、アメリカの軍事力がネコであり、オサマ・ビンラディンの率いるアルカイダ(アラビア語で拠点、基盤の意)のテロ活動がネズミです。去年の多発テロによって世界貿易センターの双子のビルが倒壊したのは正に「窮鼠 猫を噛む」行為でした。ネコに象徴されるものは、アメリカ、イスラエル、資本主義社会、先進諸国です。ネズミは、パレスチナ人、過激派イスラム教徒、開発途上の諸国です。60年前の第二次世界大戦では「持てる国」と「持たざる国」との対決でしたが、現代はその対決の再現です。今、ジョージ・ブッシュ大統領がやっていることは、ネズミを絶滅させることによってアメリカの世界支配(パックス・アメリカーナ)を確立することです。それは正しい道ではありません。正しい道は、ネズミとネコが平和共存して行く道を探し求めることです。それには先ず、双方が武器を捨てることです。ニューヨークの国連ビルの正面にある石碑には預言者イザヤの言葉が刻まれています。「彼らは剣を打ち変えて鋤とし、槍を打ち変えて鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(2・4) 私たちはこうして聖書を学ぶことによって、平和への道を歩んでいるのです。 「『然り、私はすぐに来る』 アーメン、主イエスよ、来て下さい!」(ヨハネ黙示録22・20) だから価値が無い、というのではなく、それはキリスト教徒の信仰が生み出した美しいファンタジーであるというのです。人間の生活にとって必要なものはお金や食べ物ばかりでなく、夢や空想や詩や音楽や神話なども大切です。子供も大人もディズニー・ランドが大好きな由縁です。現実と神話とが絶妙に混合してクリスマス物語が構成されているのです。それはキリスト教徒ばかりでなく、全人類の文化遺産の一つなのです。 洗礼者ヨハネの父親の名はザカリアで、エルサレム神殿の祭司で、妻のエリザベツも祭司の娘で、二人とも子供ができないままで老齢に達していましたが、奇跡的に男児が与えられます。そのような例は旧約聖書にいくつかあるの 2002年 9月22日 聖日礼拝説教 |
さて、六か月目に、天使ガブリエルが、神からガリラヤのナザレの町の一人のおとめの許に遣わされた。彼女はダビデ家の末裔であるヨセフという名の男と婚約していた。そのおとめの名はマリア。天使は彼女の所に来て言った。
いま日本で最もショッキングな話題は、北朝鮮の工作員による日本人の拉致事件です。小泉純一郎首相が北朝鮮を訪問して金正日総書記と会談した時に、10数人の日本人を拉致したことと、その中の8人が既に死亡している事実を知らされ、謝罪されました。事件の真相の解明はこれからですが、肉親を拉致され、恐らくは殺された家族の無念はいかばかりでしょう。中学生が学校からの帰り道で、あるいは母娘が買い物をした後に、または恋人たちが海辺を散策している時に拉致されたり、また若者が外国の街角でだまされて、北朝鮮に連行され、そこで恐喝されたり、洗脳されたりして、邪悪な国家目的のために利用されたのです。私たちはいつ、どこで、そのような日常性の中のブラック・ホールに落ち込むような目に遭うかも知れません。まことに現代は陰謀と暴力とが横行しているテロリズムの時代です。 2002年 9月29日 聖日礼拝説教 |
その頃、マリアは立ち上がり、急いで山里へ向かい、ユダの町へ行った。そしてザカリアの家に入り、エリザベツに挨拶した。エリザベツがマリアの挨拶を聞いた時、胎内でその子が踊った。その時、エリザベツは聖霊に満たされ、声高らかに叫んで言った。「あなたは女の中で祝福されたお方、あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母上が私の許に来て下さるとは、どうしたことでしょう。ごらん下さい。あなたの挨拶の声が私の耳に入った時、私の内の胎児は喜び踊りました。主がお語りになったことが必ず実現すると信じた女は、何と幸いなことでしょう!」
日本の社会はいま、不景気の真っ直中にあります。国も県も市も、気が遠くなるほどの膨大な借金で四苦八苦しています。銀行と各金融機関も莫大な不良債権を抱えて、その処理に頭を痛めています。会社や企業は利益追求第一主義に走り、従業員の福祉厚生が疎かにされています。10数年前のバブル景気に 祭司の老妻エリザベツは、遠路はるばる訪ねて来たマリアを迎え入れました。そしてマリアの挨拶の声を聞いた時、胎児ヨハネが喜び踊りました。ヨハネは既に「聖霊に満たされて」(15節)いました。胎児の踊りを感じると、 今日の私たちも又、同じ聖霊によって、イエスを「わが主」と告白しているのです。 2002年10月 6日 聖日礼拝説教 |