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 「旅人イエス」 (6)


 するとマリアは言った。
「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主なる神を喜び称えます。
 ご自身の卑しいはしためにさえ、御目を注がれたからです。
 ごらん下さい。今から後、世々の人々は皆、私を幸せな女と呼ぶでしょう。
 力あるお方が私に大いなる事をして下さったからです。
 その御名は聖く、その憐れみは世々限りなく、主を畏れる者に臨みます。
 主は御腕をもって力ある御業を成し遂げ、心の驕り高ぶる者を追い散らし、権力者を王座から引き下ろし、低い者を高く上げ、飢えた者を良いもので飽かせ、富める者を空腹のまま追い返されます。
 主は、僕イスラエルを受け入れ、憐れみをお忘れになりません。
 私たちの父祖アブラハムとその子孫とを永遠に憐れむと約束された通りに」
 マリアは三か月ほどエリザベツの許に留まった。
 そして自分の家へ帰って行った。 
            ルカ福音書 1章46〜56節

 

「わが心は あまつ神を とうとみ、わが魂 救い主をほめまつりて 喜ぶ」
                         (讃美歌95番)

 毎年、待降節が来ると、どこの教会でもこの讃美歌がうたわれます。川崎
教会でも必ずうたわれます。
 これは
マグニフィカート(その詩のラテン語の最初の語)として世界中のキリスト信者によって愛唱されている讃美歌です。
 アイン・カレムの「聖母訪問教会」の側壁にも42か国語に訳されて掲示されています。その中には日本語のものもあります(ラゲ訳)
 この歌をうたうと、不思議な活力が心の中に湧き上がって来ます。
「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主なる神を喜び称えます」
 これはヘブル詩文の特長である対句法(パラレリズム)ですから、前の句と後の句とは、同じ内容のことを表現を変えて二度言っているのです。それによってその言葉が強調され、聞く者に深い印象を与えます。
 現代人は人間とその力を崇め、称賛しますが、マリアの魂は主なる神の御名を
マグニファイ(讃美)し、彼女の霊は救い主なる神を有頂天になって喜びます。これはキリスト信者の共通した魂の傾向です。人間の偉大さには必ずそ
の裏面があります。戦争中、昭和天皇は日本人にとっては「神」でしたが、迫害された中国人や韓国人にとっては「悪魔の首領」でした。その他、聖人、偉人、英雄などには、必ずそのマイナス面があるものです。しかし主なる神には裏表がありません。「神は光であって、神には少しの暗い所もない」(ヨハネ第一書1・5)私たちは安心して神を信頼することができるのです。
 
 マリアの讃歌は本来、エリザベツの讃歌ではなかったのか、という疑問が古代からありました。
「マリアが、すべてのギリシャ語の写本と、殆んどすべての翻訳でその語り手である。エリザベツは、最も古いラテン語の写本と、イレナイオス(2世紀後半)とその他数人の教父たちによるルカのこの個所の引用に出てくる。それ故、エリザベツの支持は少ない。しかし、多くの解釈者は固有の可能性をエリザベツの方に認めている。マグニフィカートはハンナの歌(サムエル記上2・1〜10)をモデルにして作られている。その歌は、長い間子供ができなかった女に、神が祈りに応えてその悩みを終わらせて下さったことに対する感謝の讃美の歌である(サムエル記上1・11)それ故、ハンナの情況に似ているのはエリザベツの情況である。その時、預言者的な霊感に満たされたのはエリザベツであった(41節) ザカリアの喜び(67〜79節)は、マリアの喜びよりもエリザベツの喜びと並行している。48節の言葉はマリアよりも、エリザベツの唇にのせた方がよく似合う。56節の言葉は、46節の言葉がエリザベツであったかのように読める。...マグニフィカートは元来25節の後に続いていたかと思われる」(インタプリターズ バイブル)

 「この讃美歌の原型はマリアではなくエリザベツの歌ったものではあるまいかという説がある。48節はルカの付加であるから、これを取る。前半は不妊の女であったエリザベツが子を恵まれた感謝を歌っているのであるという。これをマリアの歌に変えたのはルカであるというのである。この仮説を主張する学者は、これは洗礼者ヨハネに関する伝承に属し、イエスとは元来は無関係なものであると言うわけである」(山下次郎)

 
 マグニフィカートはハンナの歌を土台にして、詩篇その他、旧約聖書のいろいろな個所から言葉を摘み取ってきた美しい「花束」(塚本虎二)です。
 その前半(46〜50節)は感謝の歌ですが、後半(51〜55節)には終末思想が色濃く表われています。終末思想の特徴は、あらゆる人間の運命がその時逆転するという点にあります。

「この讃美の歌の基本態度は徹底的に終末論的である。文字の上では救いの時が始まる転回の出来事がすでに見られるとしても、このことはその基本態度を少しも変えるものではない。むしろ、過去の時称の中に既に未来の出来事の突入を記すというやり方は、終末論的な讃美の歌に固有な筆法である(例えば、イザヤ44・23、詩48・5以下参照) 成就した未来は現在として記されるのである」(K・H・レングスドルフ)
 

 人間にとっては未来に属する事柄であっても、神が既に決定した出来事は、ヘブル的な語法では、過去形で言い表わすのです。いわゆる「預言的過去形」
です。
「ひとりのみどり児が私たちのために生まれた。ひとりの男の児が私たちに与えられた。権威が彼の肩の上にある...。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(イザヤ書9章)
 これはイザヤのメシア預言です。
 
「世界に決定的な日が来る。その日に神はその昔先祖アブラハムと交わした契約を果たして下さる。今、イスラエルに敵する異邦人は、その日イスラエルの民の足下にひれ伏し、イスラエルの民は神の栄光を称えて、平和と自由の生活を楽しむという終末の希望を歌ったこのような形式の歌は、当時数多く存在し、流布していたであろう」(山下次郎)
 
 私たちはそのようなイスラエル民族の終末観のキリスト教化した形の終末観を「黙示録の世界」(ヨハネ黙示録の研究)から学びました。 
 マグニフィカートの51〜53節は、6章20から26節のイエスの御言葉とよく似ています。
 
「幸いなるかな、貧しき者たち。神の支配は君たちのものなのだから。幸いなるかな、いま飢えている者たち。君たちは満腹するであろうから。幸いなるかな、いま泣いている者たち。君たちは笑うようになるのだから。...しかし、君たちは禍いだ、富める者たちよ。君たちは慰めを受けてしまっている。君たちは禍いだ、いま満腹している者たちよ。君たちは飢えるであろうから。禍いだ、いま笑っている者たちよ。君たちは悲しみ、嘆くであろうから。禍いだ、皆の者たちが君たちを誉めそやす時には。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに対して同じことをしたのだから」

 この説教の内容と並行しているのは「金持ちと乞食のラザロ」の運命を語った主イエスの例え話(ルカ16章19節以下)です。
 しかし世界の終末は、主イエスの到来によってすでに来ているのです。
 
「私が神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の支配はその時、君たちの所に来ているのだ」(ルカ11・20)
 これは他人事ではありません。「アメイジング・グレイス」を、我が身の上に起こった出来事として讃美することのできる人には、この御言葉が実現しているのです。神の支配はいつ来るのか、とパリサイ人が尋ねた時、主イエスは答えて言いました。
 
「神の支配は、見える形で来るのではない。また『見よ、それはここにある』とか、『あそこだ』とか、とは言えない。見よ、神の支配は、君たちの真ん中にあるのだ」(ルカ17・20〜21)
 神の支配は、今、ここに、この礼拝の場で、実現しているのです。教会は、この世に於ける終末論的な存在であり、各キリスト信者は、終末論的なイノチを生きる「証人」であるのです。

     2002年10月13日 聖日礼拝説教

 「旅人イエス」 (7)


 さて、エリザベツは月が満ちて、男の子を産んだ。近所の人々や親戚の人たちは、主がエリザベツに大いなる憐れみを賜ったと聞いて、彼女と共に喜んだ。そして八日目になったので、その子に割礼を行うために人々が集まって来
た時、父親の名にちなんで、ザカリアと名付けようとした。しかし母親は答えて言った。
「いいえ、その子はヨハネと呼ばれるでしょう」そこで人々は彼女に言った。「あなたの親戚には、そのような名の人は一人もいないのです」
 そこで彼らは父親に合図して、何と名付けるか、と尋ねた。すると彼は書板を求めて、その上に書いた。「この子の名はヨハネ」
 人々はみな驚いた。するとたちまち、ザカリアの口が開かれ、舌がゆるんで、言葉を発し、神を誉め称えた。近所の人々は皆畏れ、ユダの山里一帯にこの話が広まった。そして、これを聞いた人々は皆、それを心に留めて、「この子はいったい何者になるだろう」と言った。確かに、主の御手が彼と共にあった。
              ルカ福音書1章57〜66節
 

 北朝鮮に拉致された被害者の中、5名が生存して一時帰国していますが、8名は死亡していて、その遺骨も行方不明であると言われています。バリ島ではテロ爆発があり、180人以上の犠牲者が出ました。アメリカ東部では、連続銃撃事件が起きています。またアメリカ全土ではナイジェリア・ウイルスを運ぶ蚊に咬まれて多数の死者が出ており、その蚊はやがて日本にも来るのではないか、と警戒されております。人間はいつ、どこで、どのようにして死ぬか分かりません。私たちはヨハネ黙示録から全宇宙的な終末論を学びましたが、その中には個人的な終末も含まれているのです。
 いま老人介護の問題が深刻です。超老人の親を老人の子が介護したり、配偶者の介護、身内の者の介護、また逆に病気や障害をもつ子供の介護と、介護の有り方はさまざまです。私自身も老人の一人として、事故死でない限り、やがて介護を受ける身になります。そして終には死の問題が待っています。いつ、どこで、どのようにして死ぬか。家でか、病院でか、老人ホームでか。そしていかなる覚悟をもって死に直面するか。これは常日頃の信仰の在り方の問題です。私たちはいかに生きるかという問題と並行して、いかに死ぬかと問いつつ、聖書の学びを進めているのです。


 「すべての嬰児は、神がまだ人間に絶望してはいないというメッセージを携えて生まれて来る」(タゴール)
 子供は人類の希望です。子供の存在は人間社会の将来の証です。生命がこの世に生み出される子供の誕生ほど嬉しい出来事はありません。
 
「57〜58節は、楽しいユダヤ人の家庭生活の絵のようだ。次々に近所の人ちや親戚の人たちが訪ねて来る。前者は近いので先に、後者は遠方から後に。幸せな母親エリザベツがその絵の中心にいる。そして一人一人が彼女の許にやって来て、喜びを共にする」(F・ゴーデー)
 
 祭司ザカリアとその妻エリザベツは「二人とも神の御前に正しい人であって、主のすべての戒めと規定とを落ち度なく守っていた」(6節) しかしその夫婦の生活には暗い陰がさしていました。「彼らには子供が無かった。エリ
ザベツは不妊の女であり、また二人ともすでに老齢であった」(7節)
 家系を重んじるユダヤ人の社会では、子供ができないこと、特に男の子が生まれないことは、家の恥でした。しかしザカリアが神殿内の聖所で祭司の務めを果たしていた時、天使ガブリエルが現われて、子供の誕生を予告しました。

「恐れるな、ザカリアよ。お前の祈りが聴かれたのだ。お前の妻エリザベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名付けなさい。彼はお前に喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう...」(13節以下)

 その予告どおりエリザベツは妊娠しました。
「主は、いま私を心にかけて下さって、人々の間から私の恥を取り除くために、こうしてくださいました」(25節)
 この喜びがその子の誕生によって現実になりました。
「エリザベツは月が満ちて、男の子を産んだ」は、「マリアは月が満ちて、初子をみ...」(2・6)と対応しています。また「八日目になったので、その子に割礼を行うために人々が集まって来た時、...ザカリアと名付けようとした」は、「八日が過ぎ、割礼をほどこす時が来た。この日、彼はイエスと名付けられた」(2・21)と対応しています。
「割礼とはセム人種に共通する一つの宗教的儀式であって、男子の陽皮に施す簡単な手術である。ユダヤ人にとっては最も神聖な儀式であって、これを受けることによって、初めて神の選民ユダヤ人としての特権に与ることができた。即ちこれは神とユダヤ人との契約の徴と認められた(創17・11〜14)
 故にこれは安息日以上に重要な儀典とされた(ヨハネ7・22) これは生後八日目に行われる慣例であった」(塚本虎二)
 
 割礼と同時に命名がなされました。人々は、ザカリアの子だから「ザカリア」と名付けられるだろう、と期待していました。私のアメリカの友人の名はクリント・ダグラスですが、それは父親と同じ名でした。それで家庭ではJun
ior、略してジェイ・アールと呼ばれていました。元大統領と現大統領の名は共にジョージ・ブッシュで、父子です。
 あるユダヤ人の家系において「シモンーマッテアスーマッテアスーヨセフーマッテアスーヨセフ」(ヨセフス)というのがありました。
 人々が口々に、ザカリア、ザカリアと言うのを聞いて、エリザベツはきっぱりと「いいえ、その子はヨハネと呼ばれるでしょう」と言いました。ヨハネは元来はヨハナンであって「ヤハウェは恵み深い」という意味です。その名は天使によってザカリアには予告されていました(13節)が、エリザベツも何らかの形で告げられていたのでしょう。
 人々はエリザベツの意外な言葉に驚いて、不信の罰(20節)のために口が利けないままでいたザカリアに確かめた所、彼も書板に「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は更にビックリしました。するとその瞬間に「ザカリアの口が開かれ、舌がゆるんで、言葉を発し、神を誉め称えた」

 この奇跡を見た「人々は皆、それを心に留めて」は、「マリアはこれらの事をことごとく心に留めて」(2・19)と対応しています。
 「私は八日目に割礼を受けた者、イスラエル民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者...」(ピリピ書3・5〜6)
 離散のユダヤ人パウロの性器にも割礼のシルシがありました。それは彼にとって「肉の頼み」であり、神の選民としての民族的な誇りでした。ユダヤ人たちは他国人たちを「無割礼の汚れた者」(イザヤ書52・1)と呼んで、軽蔑していました。割礼は「聖別」のシルシで、ユダヤ教の律法と深い関係にありました。
 キリストの福音は、割礼を含むユダヤ教の律法のすべてを止揚しました。
「止揚。否定、高めること、保存することの意。弁証法的発展では、低い段階の否定を通じて高い段階へ進むが、高い段階のうちに低い段階の実質が保存さ
れること。揚棄」(広辞苑)

 それを誰よりも明確に教えた人は、使徒パウロでした。

「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによって証しされて、現わされた。それは、イエス・キリストの信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。即ち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは値なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いによって義とされるのである...」(ローマ書3・21以下)
 
 パウロはこの自由の福音を理解しない多くの人々と闘いました。ガラテヤ書はその闘いの記録です。
 
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない...」(ガラテヤ書5・1以下)

     2002年10月27日 聖日礼拝説教




 「旅人イエス」 (8)


 父ザカリアは聖霊に満たされ、預言して言った。
「誉むべきかな、主なるイスラエルの神! 主はその民を顧みてこれを贖い出され、私たちのために救いの角を、その僕ダビデの家の中に起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られた如く、私たちの敵、即ち私たちを憎むすべての者の手からの救いを顕わされた。私たちの父祖を憐れみ、その聖なる契約、即ち私たちの父アブラハムに誓われた誓約を心にかけて、私たちを敵の手から救い出されて、恐れることなく、私たちのすべての日々を、御前に聖と義とのうちに仕えて過ごすことを賜わるために。
 幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれる。あなたは主の御前を歩み、主の道を備え、罪の赦しによる救いをその民に告げ知らせるのだから。それは、私たちの神の慈しみ豊かな憐れみによるのである。その憐れみによ
って、昇る朝日が高みから私たちの上に臨んで、暗黒と死の陰に座している者たちを照らし、私たちの歩みを平和の道に導くであろう」
 幼な子は成長して、霊において強くなり、イスラエルの民の前に現われる日まで、荒野にいた。
              ルカ福音書1章67〜80節

 

 今年は夏の暑さが長びき、秋になっても暑い日が続きましたが、この頃は冬の寒気が早目に来てしまい、急に寒い日が続いていますので、風邪に悩まされている人が多くいます。私自身も風邪をひいてしまい、3日には体調不良の
まま港教会の礼拝説教の御用を務めましたが、そこでも飯島先生をはじめ多くの兄姉方が風邪ひきでした。4日には三島の国分寺にある高田敏子先生と、願成寺にある尾島真治牧師の墓参に行く予定にしておりましたが、不参加と決
め、真柄兄姉と富田兄と今井兄とが行って下さいました。そして私自身は家にいて、原稿の仕事に取り組みました。
 
 今日のテキストは
「ベネディクトゥス」として知られているザカリアの讃歌です。これもマリアの讃歌マグニフィカートと同様に、ラテン語訳聖書で「ベネディクトゥス(誉むべきかな)」という言葉で始まっているためにそう呼
ばれて、キリスト教徒の間で親しまれてきました。

 
 天使ガブリエルの言葉に対して不信を示したために聾唖者にされていたザカリアは、ヨハネが誕生し、命名を行なったとたんに「口が開かれ、舌がゆるんで、言葉を発し、神を誉め称えた」(64節)
 そしてその言葉が67〜79節の讃歌となって流出しているのです。それは丁度、休止していた火山が、急に噴火したような勢いがあります。
 「父ザカリアは聖霊に満たされ、預言して言った」

 「実際にはベネディクトゥスは讃美の歌ではない。その内容は預言である。これは二つの部分に分かれており、第一の部分(68〜75)はイスラエルの救いに対する預言である。第二の部分(76〜79)は新しく生まれた子ヨハネの将来に関する預言である。第一の部分は神がイスラエルに対して約束を果たして下さることに感謝する言葉から始まっている...」(山下次郎)

 68〜69節は、ダビデ・ソロモン時代のイスラエルの黄金時代を懐古しています。それに比べて現在は「私たちの敵」即ち異国人、直接的にはローマ人の圧政下に苦しめられています。その苦境から、神がアブラハムに誓った誓約が言葉通りに行われて、圧迫者の下から救出されて、日々平安の中に信仰生活を送ることができるようにと、願い求めているのです。それはキリスト出現以前のユダヤ教徒たちの祈願でした。
 ここで彼らが願い求めたものは政治的な自由でした。私たちは現在、憲法に保障された信教の自由の下に信仰生活を楽しんでおりますが、このように恵まれた状態は当たり前のことではないのです。このことに深く感謝し、この自由が再び犯されないように警戒していなければなりません。
 76〜79節には、洗礼者ヨハネの使命が語られています。ヨハネは「いと高き者の預言者」ですが、イエスは「いと高き者の子」(32節)です。ここにも対応関係があり、後者の優位性が暗示されています。

「70節はルカの文体(使3・21参照)である。76〜77節はルカ以前の加筆であろう。...この歌の内容は、旧約の約束(68〜75節)、先駆者ヨハネ(76〜77節)、そしてイエス(78〜79)という順序として読み取れる」(新共同訳新約聖書注解)

 この讃歌の前半(67〜75節)が旧訳的であるのに比べて、後半(76〜79節)は新約的で
す。「あなたは主の御前を歩み、主の道を備え」(76節) この「主」はイエスです。それに続く「罪の赦しによる救い」は宗教的な救いであって、71節と74節のの「救い」は政治的な救いです。

 「67〜79節。これらの節は歴史上のある過程で、恐らく64節に暗示されて、物語の中に挿入されたように見える。80節を2章40節及び52節と比較せよ。疑いもなく、このヨハネ誕生時の報告の要約(80節)は、元来
66節に続いていた。『イスラエルの民の前に現われる日』 ルカはここで3章1〜6節の物語を想定している」(インタプリターズ・バイブル)

 ルカは様々な資料をつなぎ合わせたり、切り貼りをしたり、筆を加えたりして、彼の福音前史を仕上げました。
 誕生期の物語の次に、イエスの場合には12歳の時の「宮詣で」の記事(2・41〜51)がありますが、ヨハネの場合にはそれが無く、消息不明のまま歳月が流れて、次に登場する時には「荒野に叫ぶ預言者」(3・1以下)になっていました。幼な子ヨハネは、あの荒涼としたユダの荒野で、どのようにして成長したのでしょうか?
 ひとつの可能性は死海文書を残したエッセネ派クムラン宗団の存在です。その宗団はBC2世紀からAD68年まで死海の北西岸にて活動しており、ヨハネ・イエスの時代にはその最盛期でした。新約聖書のナゾの一つは、パリサイ派とサドカイ派には言及がありますが、エッセネ派については沈黙していることです。ヨセフスはその三者に言及しています。
 

「ユダヤ人の間には三つの哲学の派があり、第一の派に属するのはパリサイ、第二はサドカイであり、第三のものは、高潔な生活を実践することで有名なエッセネ派と呼ばれる群である」(ユダヤ戦記)

 ヨハネとエッセネ派クムラン宗団とは、時代と場所とが重なっており、禁欲的な生活態度や罪の悔い改めやバプテスマの習慣など、共通点が多くあります。以下はドイツの聖書学者オットー・ベッツの言葉です。
 
 ヨハネの生活と宣教の動機づけとなった聖書の命令と同じ個所を掲げて、エッセネ派は荒野に導かれて行った。初代のキリスト教徒はヨハネを「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋を真っすぐにせよ』」という姿
に理解していた。マルコのこの節(1・3)は、クムランの「宗規要覧」の中にも引用されたイザヤの言葉(40・3)を同じく引いている。クムランの居住地や巻物の発見された隣接する洞穴は、エリコに近く、伝承でヨハネが活
動していたという場所の近くに位置している。ヨハネ誕生に関するルカの記述は、驚くべき文で終わる(1・80)
 どうやって、この小さい子供は荒野で大きく成ったのだろうか。そこで、修道僧のような生活を送りながら住んでいたエッセネ派が登場する。ヨセフスによれば、エッセネ派は他人の子供が「まだ幼く矯め易いうちに」養子とし、
自分の血族のように世話をし、自分たちの生き方に沿って育てる。ヨハネはクムランで育てられたのではないだろうか。...クムラン共同体とヨハネについて、両者の生活と教えの一致点はしばしば驚異的なものがある...。
 

 結局ヨハネは、幼少年期にはクムランで成長し、後に、神の特別な召命を受けて、その共同体から自立して、独自の歩みを始めた、というのがベッツの結論です。

     2002年11月10日 聖日礼拝説教

 
 
 

 「旅人イエス」 (9)


 その頃、皇帝アウグストゥスから、全世界の人口調査をせよとの勅令が出た。この登録は、キリニウスがシリアの総督であった時、初めて行われたものである。そこですべての人がおのおの登録のために自分の町へ帰って行った。
ヨセフもガリラヤのナザレの町を出て、ユダヤのベツレヘムという名のダビデの町へ上って行った。彼はダビデの家系に属し、その一族であったためである。婚約者で、すでに身重になっていたマリアと一緒に登録するためであった
。ところが彼らがそこに滞在しているうちに、出産の日が満ちて、初子を産み、その子を産着でくるんで、飼葉桶に寝かせた。宿屋には、彼らのための居場所が無かったからである。
                ルカ福音書2章1〜7節

 

 11月はまだ秋の月であるのに、今年は冬の寒気が10月の中旬に入って来てしまい、それ以来冬日が続いているような感じがいたします。私自身も人並みに風邪をひいてしまい、おまけに先週はギックリ腰になって、本当に往生しました。17日の午後、礼拝説教の御用のために上落合教会へ行きましたが、そこでも教会の兄姉方に同情されてしまいました。しかしたまに痛みや苦しみを経験することは必要なことであると考えます。世の中には病気の人や障害のある人や老人など、弱い立場にある人々が沢山いるのですから、一時的とはいえ、それらの人々と同じ立場に立ち、同じ経験を味わうことは、高慢にならないために、同情心を深くするために、即ち、自分自身の教育のために必修科目であると思います。そしてやがて死に至る病にかかって死ぬのですから、それは死の準備教育の一部分でもあるのです。
 

 さて、今日のテキストはクリスマス物語です。川崎教会には世界で一番早くクリスマスがやって来ました。他のすべての教会では12月1日から待降節が始まるというのに、ここでは既にクリスマス物語が学ばれます。もう50年も昔、高田英語学園のクリスマス祝会で、高田敏子先生に指導されて、今日の聖書個所を英語と日本語で暗誦させられたことを懐かしく思い出します。
 
 昔は、聖書は神の御言葉であるのだから、その一言一句は真理であり、絶対に間違いのないものと信じられてきました。そして聖書の言葉を批判する者は教会の権力によって処罰されました。しかし18世紀後半から、自由な心をもつ聖書学者たちが聖書を学問の対象として、科学的に、批判的に、分析的に研究をし始めました。そのお陰で今日では、次第に聖書の真相が明らかにされてきました。聖書の研究は今、最もエクサイティングな学問の一つです。聖書の記述の中には、当然のことながら、人間的な思惑や、錯覚や、誤謬などがかなりあるのです。以下は今日のテキストに対する佐藤研氏のコメントです。

 シリア州総督キリニウスが、ユダヤの戸口調査(census)を行なったのは、ユダヤがローマの直轄属州になった紀元後6年のこと。ただし、これはローマ帝国全土の戸口調査では全然ない。さらに、ルカはこの年をイエスの誕生の時とする一方、イエスをヘロデ大王の治世に生まれたとも見なしている(1・5、なおマタイ2・1も参照)
 だが、ヘロデ大王は紀元前4年に死んでおり、ルカの叙述には明白な矛盾がある。恐らく、キリニウスの戸口調査をイエスの誕生の関連で持ち出したのは、イエスの事件を世界史的枠組みの中に入れようとする、ルカ個人の編集作業であろう。

 

 以上のコメントは、キリスト教根本主義者(fundamentalist)にとってはショッキングであるかも知れませんが、常識的に考えれば、ごく当たり前なことでもあるのです。
「とにかくルカの言葉から明白なのは、こういったことは、キリスト者の間では、民衆の語り口で語られたのであって、ローマ公人の几帳面な正確さで語られたのではなかったということである」(シュラッター)

 結局イエスの誕生はヘロデ大王の死の少し前、BC4〜6年が常識的な判断です。後世に歴史学者が、イエス・キリストの誕生を紀元元年とするキリスト教の年号(西暦)を決めた時にも、数年の計算違いを犯しましたが、今日までそのままの形で使用されています。

 著者ルカはマルコ福音書を資料に用いているが、マルコの意味での「福音」(マルコ1・1)を書こうとしたのではなく、むしろイエスの誕生から死、復活、昇天に至る一連の出来事を「物語」(ルカ1・1)として記録しているのである。そしてその時の著者の視点は、エルサレムに始まった福音がついに世界の中心ローマにまで伝播されていった初期キリスト教の歴史をイエスの生涯をも含めて全体的に見る視点である。
 つまりここでイエスの出来事は、確かに救済の中心としての意義をもっているが、しかし初期教会史の一段階として明らかに過去のことであり、一般史の中に位置づけられる事件として扱われている(2・1、3・1) マルコ福音書(マタイも)は、ルカと異なって、宣教において臨在するイエス──著者・読者と常に同時性をもって存在し働きかけるイエス──を描くことを目的とし、各ペリコーペ(断片的なエピソード)の配置は史的考察によっていない。他方ルカは...イエスを「歴史」の中に描こうとする。こうして彼はそれ以前に著されたものよりも史的に信頼できる情報を提供しようとしたのである。(総説新約聖書)

 マルコは福音を宣教し、ルカは物語を語った。これは面白い。マルコはヘブライ思想をもったユダヤ人でした。彼が「時は満ちた。神の国は近づいた。君たちは悔い改めて福音を信ぜよ」(1・15)と書いた時に、それを語った者はイエスであり、それを読む者は、イエス御自身から直接的にその言葉を受領するのです。いわばそれは直観的、主観的な経験になるのです。「神が語った。私はそれを聴いた」という霊的、宗教的な魂の経験です。
「御言葉うち開くれば光を放ちて、愚かなる者を賢からしむ」(詩篇119) 他方ルカは、ギリシャ的な知性をもったギリシャ人でした。
「ユダヤ人は(神からの)しるしを請い、ギリシャ人は(人間の)知恵を求める」(コリント第一書1・22)
 ユダヤ人は啓示の民であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という世界の一神教はユダヤから生まれました。他方ギリシャ人は、客観的な事実を重んじる実証的な精神の持ち主でした。それでギリシャは哲学、科学、美術の発生地になりました。
 マルコの「イエス」は福音の中に現在しているイエスですが、ルカの「イエス」は歴史物語の中に組み込まれた過去のイエスです。
 ルカが福音書を書いたのは80年代でしたから、イエスとの時間的な距離は50〜60年あります。「イエスが宣教を始めたのは、年およそ30歳の時」(ルカ3・23) これは皇帝ティベリウス治世の第15年、即ちAD27〜28年に当たります。

「イエスの誕生を、この政治の枠組みに挿入した神学的理由は、イエスがすべての人、即ち全世界のために生まれたという教えの準備である。住民登録のモチーフは、イエスの誕生を公の帝国の舞台に置く。従って、世界最大の強者たるローマ皇帝は全世界に勅令を発するが、それは知らずして神の救いの計画に寄与するのだということになり、またこの皇帝アウグストゥスは『全世界の救い主』と称され、人々から『アウグストゥス(尊厳なる者)の平和』と云われたが、しかし彼の治世下に生まれたイエスこそが真の平和の救い主である
、と暗示されている」(新共同訳新約聖書注解)

  
 当時のローマ世界の第一人者、比類なき権力者、初代ローマ皇帝アウグストゥスと、旅先の安宿の家畜置き場に生まれた徒手空拳の赤児のイエスとの対比。その時から二千年の歳月が流れた今日、果たしてどちらが本当の救い主キ
リストであったのか。歴史家ルカの洞察力は確かなものでした。

             2002年11月24日 聖日礼拝説教

 
 
 

 「旅人イエス」 (10)


 さて、イエス・キリストの誕生はこのようであった。彼の母マリアがヨセフと婚約していた時、彼らがまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことを公けにすることを望まず、秘かに離縁しようと決心した。彼がなおもそのことを思案していた時、見よ、主の天使が夢の中に現われて言った。
「ダビデの子ヨセフよ、心配せずにあなたの妻マリアを迎え入れよ。胎内に宿っている者は、聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼はその民をその罪から救う者となるからである」
 これは皆、主が預言者を通して言われたことが成就するためである。即ち、「見よ、乙女がみごもって男の子を産む。人々は彼の名をインマヌエルと呼ぶであろう」
 それは「神、われらと共にいます」と翻訳される。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通りに、マリアを迎え入れた。しかし、子が生まれるまでは、彼女を知る
ことはなかった。そして、彼はその子をイエスと名づけた。
            マタイ福音書 1章18〜25節

 

 国際ギデオン協会という団体が、キリストの福音の布教のために無料で聖書
を配布しています。初めて聖書を手にした人々のためのガイドとして、その見開きの所に、「おりにかなう助け」という項目があって、「祈りたい時」にはこの個所を、「意気消沈した時」にはこの個所を...と、何書の何章何節、何頁と指示してあります。それは初心者にとっては大変に親切な配慮であって、それによって慰められたり、助けられたりした人もいることでしょう。それはそれで結構なことですが、いつまでもそのように聖書をおみくじか占いの本のように扱うようでは、とうてい聖書の心は分かりません。

 
 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと、四つの福音書には、イエス・キリストの生涯のことが記されています。それをどう読むか? 大部分の人は、それらを一緒くたにして、いわば交ぜ御飯のようにして読んでいます。それでは四種類の味が平均化されて、一つの味になってしまいます。それではダメなのです。

 マタイにはマタイ独特の風味があり、ルカにはルカ独特の味わいがあるのです。マタイはマタイとして読み、ルカはルカとして読んで、その共通点と相違点とを取り出して、何故そうなのか、と考える必要があります。そうすると著者の心が次第に明らかになってくるのです。
 
 イエスの誕生物語はマタイ福音書1〜2章とルカ福音書1〜2章にあります。それらは一緒くたに交ぜ合わされて、一連の「クリスマス物語」として人々の心に定着しています。しかしそれを元に戻して、マタイはマタイとして、ルカはルカとして読み直してみると、意外な事実が明らかになってきます。
 
 「旅人イエス」は、その誕生の時から旅人でした。マタイ福音書によると、ヨセフとマリアはベツレヘムの住民で、イエスは「家」(2・10)で誕生しています。そこには皇帝アウグストゥスによる人口調査もなければ、ナザレからベツレヘムへの旅もなく、飼葉桶もなく、天使の大軍の大合唱もありません。その代わりに、星に導かれて東の国から来た占星術師たちの表敬訪問があり、暴君ヘロデ王の幼児殺戮があり、聖家族は迫害を逃れてエジプトへ行き、ヘロデの死後、イスラエルの地へ戻って来ますが、ヘロデの長男アケラオがユダヤの領主になっているニュースを聞いて、故郷のベツレヘムには戻らず、ガリラヤのナザレの町へ行って住み着きました。旅人イエスは、ベツレヘム──エジプト──ナザレと旅をしました。

 他方、ルカ福音書によると、ヨセフとマリアはガリラヤのナザレの町の住民であって、人口調査の登録のためにヨセフの本籍地であるユダヤのベツレヘムへ旅し、その地の宿屋の家畜置場でイエスは誕生しました。そして天使の告知を受けた羊飼いたちが拝礼のために訪れ、天使の大軍の大合唱を聞きました。そして八日後、幼児イエスの割礼のためにエルサレムの神殿に上って、律法どおりに犠牲を献げて、「自分の町ナザレに帰った」(2・39) そこにはヘロデ王の迫害も無ければ、エジプトへの逃避行もありません。旅人イエスは、ナザレ──ベツレヘム──エルサレム──ナザレと旅をしました。
 

 その両者の相違は、その両者に伝承された資料の相違と、各々の著者の信仰思想の相違によるのです。マタイやルカが福音書を書いた時までに、各地方の教会の中で様々なキリスト伝説が生まれ、育まれて来ました。古代において
は、聖者や英雄や偉人などの誕生には奇跡物語がつきものでした。ですから、クリスマス物語も、そのすべてが歴史的な事実に基づいているわけではなく、多分に敬虔な信者たちの想像力の所産でもあるのです。その極端なものは外典福音書として区別されています。マタイとルカの聖誕物語での共通点は、処女降誕です。それについては以下に記すエドワード・シュヴァイツアーの意見が適切であると思います。


「処女降誕は可能かという問いは、現代的な問いである。古代の人間にとっては、それは決して不案内な観念ではなかった。
 我々はそれ故、このような奇跡を可能と考えるか否かという点で信仰を計ることは、決してすべきではないであろう。処女降誕が新約聖書において極めて小さい役割しか果たしていないだけに、尚更である。処女降誕の描写は、どこにもなされていない。
 ただそれについての告知が、マタイ福音書1章とルカ福音書1章で言及されているだけである。しかも、マタイとルカですら、後からもう一度それに触れることはしていない。クリスマス物語の本論の部分においてすら、そうである。
 マルコ福音書3章21節によれば、イエスが気が狂ったと考えたその母は、天使のあの約束については何一つ知っていないようである。新約聖書のどの文書も、とりわけ新約聖書の中に数多くある、定型、讃歌、また説教の形でなされる信仰の要約も、処女降誕には言及していない。ヨハネもパウロもそれについては知らない。
 ...ヨハネ福音書6章42節の、イエスはヨセフの子であるとの発言に対しては、一切反論がなされていない。
 パウロはガラテヤ書4章4節で『女から生まれ』という言い回しをイエスについて用いているが、これは人間の貧しさと弱さとを強調するユダヤの普通の表現であって、それ故それはイエスを他の人から際立たせるものではないのである。
 しかし、マタイ福音書1章においてさえも処女降誕は全く周辺に位しており、他方、福音書記者がそのことによって表現しようとしているものは、若干別のものである。
 即ち、この生誕において行動しているものは人格的な神、イスラエルの歴史の主である、ということである。それ故にこそ彼は系図で始めており、また命名を非常に強調している」

 
 4世紀の西方教会で成立した
使徒信条(讃美歌566番)の中には「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」という個条があります。その後たくさんの様々な信条が生まれましたが、信条というものは、正統的な信仰と異端とを識別するための基準又は文法なのです。しかし初期の教会の中にはもっと単純で基礎的な信条がありました。
 

「私が最も大事なこととして君たちに伝えたのは、私自身も受けたことであった。即ち、キリストが、聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてある通り、三日目に甦ったこと、ケパに現われ、次に十二人に現われたことである」(コリント第一書15・3〜5)

 これが新約聖書の教会の最古の信条の一つと言われているものです。しかし信条以前に、生きた信仰があったのです。
「文字(グラマトス、文法)は殺し、霊は活かす」(コリント第二書3・6)
 

 文法以前の幼児の言葉の、いかに新鮮で、自由で、歓喜に満ちていることでしょう!
 信仰も又それと同様です。信条以前の活き活きとした信仰こそが大切です。

 
  2002年12月1日 待降節第一聖日礼拝説教