■美鈴編■
5日目【7月25日】


 
 

◆7月25日<夜>◆
『夜の雨の中で2』


 


 俺は美鈴の手をとって別荘を飛び出した。
 彼女はしっかりと俺の手を握り返してくる。振り返るともう一方の手で涙を拭きながら、必死に俺についてきている。

 外はすでに暗くなっていて、大雨だった。俺達は降り付けてくる雨の中をひたすら走った。傷が少し雨で痛んだが、火照った身体には夜の雨の冷たさが気持ちよかった。

 いつの間にか、俺達は海岸に来ていた。確か、この先に別荘用の桟橋があったはず…そこで雨を凌ごう。

「美鈴、こっちだ!」
「…うん…」

 俺は美鈴を連れて桟橋の下に入った。薄明かりの中、俺達は乾いている土台のコンクリの上に並んで腰を降ろした。

 呼吸を整え、鼓動が落ち着くのを待つ。雨の音だけが真っ暗な闇に響いていた。
 目が慣れてくるとうっすらと周りが見え始める。
 横を見ると美鈴は膝を抱えて俯いていた。よく見ると少し震えているみたいだ。

「美鈴…寒いのか?」

 黙って頷く美鈴。

 俺は彼女の肩をそっと抱いた。
 傲慢でいつも口げんかばかりしている美鈴の肩はとても細くて、小さかった。

「ごめんね…ごめんね…まこと。私のせいだね」

 美鈴の小さな手のひらが俺の唇の傷に触れる。彼女の声は小さくて震えていた。

「俺が勝手にしたことだ。美鈴が気にするなよ」

 涙が浮かんでる美鈴の瞳が俺をじっと見据える。

「私ね、玄関でまこととすれ違った時、自分が嫌で恥ずかしくて、思わず逃げてしまったの。でも、まことが私を追いかけて来ないから嫌な予感がして…」

「友憲と何があったんだ…美鈴?」
「…あいつが来ていること、深川に聞いたの?」
「ああ。あいつが別荘に一緒に泊まるってこともな」

「そう…。あたし、嫌だった。いくらお父様の言いつけでも、こればっかりは我慢できなかった…だってそうでしょ?好きでもない相手と同じ部屋で一晩をともにするなんて、絶対出来ないわよ」

「……」

「…事情を知って、わたしが家に帰るって言うと、あの男が強引に唇を奪って、私の服を脱がそうとした。もちろん私は必死で抵抗したわ。男の腕力にはかなわないもんね。もうだめだって思った時、アメリカの護身訓練の教官の言葉を思い出したの「相手が男ならいざとなったら股間を蹴れ」ってね。見事に決まったわ。そして必死に別荘を飛び出したの」

「そうか…」
「私の、ファーストキスだったのに…あんな奴と…」

 美鈴の目から大粒の涙がこぼれだし、彼女は膝に顔を埋めて泣いた。

 ちくしょう…あの野郎、もう二、三発ぶん殴っておけばよかったぜ。

「あたしは物じゃないのにね…みんな、あたしの気持ちや意志なんていうのはどうでもいいのよ。いいようにおだてられて、いいように利用されて、そして裏切られて…もうたくさん…」

 自虐的に美鈴は微笑みを浮かべる。

「皮肉ね…あたしお金や”物”には恵まれていたけど、あたし自身が、お父様や友憲みたいなヤツの”物”に過ぎなかったのかもしれないわね」

 当たっているだけに、俺は美鈴になにも言えなかった。その美鈴の独白は凄く痛々しくて、それに対して慰めの言葉ひとつ言えない自分が情けなかった。

「本当に私が欲しい物っていつも手の届かない所にあるのよ。いらない物ばかり押しつけられて、与えられて、それと引き替えに大切なものを相手に捧げなくてはいけなかった。あたしはお金とか物なんて、欲しくなんかなかった。そんなもの望んでなかった…」

 美鈴の目から再び涙があふれ出す。

「あたし、フランスへ帰りたいよ…日本になんて、もうこれ以上いたくない…辛いことばかりのこの国から今すぐ逃げ出したいよ…消えてしまいたいよ」

 小さく霞んだ声で美鈴が言う。

「美鈴…」
「もう、嫌なの。もう我慢できない…みんな私を利用することばかり考えて、誰も本当の私を理解してくれない……認めてくれない。もう誰も信用できないよ…」
「美鈴。そんなに寂しい事いうなよ。少なくとも俺はさ、美鈴の気持ち、解ってるつもりだぜ」

 俺は美鈴の肩に少し力を入れ美鈴の体を引き寄せると、なるべく優しくそう言った。

 すると美鈴が顔をぱっとあげて俺を涙が溜まったままの目でひと睨みすると、俺の手を叩いて俺から離れる。

「な…、何が解るっていうのよ! あんたになんか! …あんたになんか……なにも解らないわよ、馬鹿!」
「美鈴?」
「何にも解ってないくせに…あたしの気持ちなんて、ちっとも解ってないくせに…適当なこと言わないでよっ!」

 そのままうずくまる美鈴。俺は彼女が急に怒りだしたことに戸惑い、押しだまってしまった。
 そして、話を再開するきっかけがつかめないまま、重苦しい時間が過ぎていった。