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隊長からの手紙


圧倒的な戦闘場面でスピルバーグ監督の力量が再認識された「プライベートライアン」・・「平和、平和」と声高に叫ばずとも、見る者に戦争の無残さ、非情さを訴えて、そのアピールの見事さには驚嘆させられたが、この映画のシーンの中で、「戦死公報」を旧式タイプライターが打ち出す音は、日本と連合軍の軍部のあり方の大きな差を感じさせてカタカタ、カタカタと響いて心に残った。

「ご子息は自由と平和の為に立派に戦って亡くなられました。ご子息の死があなた方ご家族にとって誇りになり・・・」


戦死した兵士の遺骨すら未だ収容されず、南方の地に埋もれさせたままの日本とは「人間」に対する考え方が全く違う、所詮日本と言う国は戦争の犠牲者への配慮などあった筈も無いと思いながら映画館を後にしたが、この六月に逝った母の遺品の中からこれを覆すような一通の手紙が出て来た。

今の若い人達には意味すら理解出来ない程の「候文」で、茶色く変色した粗末な「陸軍」の封筒には、宛名として母の名前が達筆な墨字で書かれていた。


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謹啓
時下春暖の候、皆々様には日夜決戦の本土防衛の御敢闘の由拝察致し居り候。この度ご夫君T君は山西省・・・・・の警備勤務中、四月二十四日有力なる敵の襲撃を受け、戦闘中、遂に生死不明と相成り候。

隊長として実に指揮の拙劣、慙愧この上無く、実に断腸の思い、瞼の熱するを禁じ能わざるものこれなく、もとより陛下の赤子としてお預かり申したご夫君のこと、奥様始め皆々様に対し何たる申し訳、お詫びの言葉これなく候、幾重にもご寛容下されたく候。

その後部隊においても活発なる敵惷動の悪条件に万難を排して捜索手段方法を講じ一意確証を得るべく頻繁なる捜索に専念致し居りも、未だ生死不明の状況にこれあり候。

以下当時の状況をお知らせ申上げ候。ご夫君T君には去る四月二十日前記分隊の警備勤務を命ぜられ愈愈士気旺盛、一意任務に邁進致し居りところ偶々四月二十日十三時頃有力なる敵の襲撃を受け同君は小銃手として奮戦せしも衆寡敵せず刻々迫る敵に分隊長は戦死、続いて戦友相倒れ、遂に拠点は全滅致され居り候。

中隊は同拠点の敵襲状況を村民よりの報告により承知、直ちに主力を以って救援の為前進せるも時すでに遅く、全滅致され居り候。

当時、分隊長以下の戦死せる死体は発見収容せしもT君は遂に発見せられず、直ちに敵の足跡を追究、追撃するも付近には既に敵影これなく候。

爾後、中隊は付近村民等より極力情報を集集し広く周辺を捜索、破壊せられたる拠点及び疑わしき地点等を逐一発掘、捜索に努めたるも遂に発見され得ず候。その後も引き続き捜索に専念し、連日密偵等を派し調査せしむると共に中隊は積極果敢なる討伐を徹底し、T君の捜索に重点を指向、極力生死不明の確証を得る覚悟に候。

右、条条の状況にによりT君は遂に生死不明と相成り候へば万々ご諒承下されたく候。奥様始め皆々様に対し誠に申し訳これ無く、重ねてお詫び申上げると共に当時の状況をご一報申上げ候。ご尊家皆々様には特にご健康に御留意あらせられん事、切に御祈り申上げ候。敬具

五月二十八日 北支派遣 造第三五八三部隊 T隊長  ・・・・・(以上原文のまま)


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戦局は悪化の一途をたどり、召集は一家の主に迄及び、もう敗戦は時間の問題だった昭和二十年、印刷ではなく隊長の几帳面な字で書かれたこの手紙から何を感じ取るかは夫々だろう(なーに、言葉だけさ・・と感じる方もあろう)しかし、指揮官として「指揮の拙劣、慙愧この上なく・・」は、当時の士官としては異例であり、部下の死を悼む率直な気持ちが顕れていると感じるのは甘いのだろうか。

「生死不明のT君」こと父は九死に一生を得て二年後に文字通り「奇跡の生還」を果たした。この手紙を受け取った時の母の衝撃は計り知れない。そして、どのような思いでこの手紙を保管しておいたのかは知る由も無い。

五十年余りが過ぎて、歴史となってしまった第二次世界大戦の小さな遺品は赤茶けて風化し、端が破れ、薄い三枚のレター紙は晩秋の風に寒そうに震えた。

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