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老いを創める(はじめる) 母親の生と死のレイアウト


90才を超えてなお現役の日野原Dr著「老いを創める」「老いと死の受容」の2冊を読むチャンスを得た。読み終わって、しみじみとした気持ちになるとともに、ある種の勇気のようなものが湧き上がってきた。なんとも素晴らしい書物である。

人は、老いたら何かを「創める」ことが大切であり、このことが年齢に命を吹き込むのだという信念で綴られた文章は、若い人の死から老衰死までを、臨床医として見つめ続けた医師であればこその語りで、読む者を納得させる。自分が自分らしく死ぬためには自分らしく生きてきたという、その経験の上でしか「死」は作り上げられない、「死」をレイアウトするために今を生きる、そういう事なのだとDrは締めくくっておられる。

本を読み終えて目を上げると亡き母の写真が微笑んでいる。

「あなたはどうだったのですか?あまりに急なことで、死のレイアウトをきめる暇もなかったでしょう?」
、、と問いかけてみた。

「いいえ!ちゃんとレイアウト出来てましたよ!生きている時からこういう風に死にたいと願って、生きてきたから、これで満足!満足!」
、、と母は答えた。

緊急入院させられた病院で、「もう家に帰る!さっきから検査ばかりで何にもならない!」と、死ぬ1時間ほど前に付き添った弟に文句を言ったそうだ。そして「私はこれで死ぬような気がする」と重ねて言ったという。そして程なく、あっけないくらいに息をしなくなった。

これを聞いた時、人は自分の最後の時は、何となく分かるように神様が造って下さっているのかもしれないと思ったものだった。あの波乱に満ちた母の一生がレイアウトした「死」は、あの人らしく、思い切り良く、いさぎよかった。

母は「老いを創める」どころか、常に何かを「始める」人だった。それは、戦時中には見よう見まねで畑にジャガイモを植え付けることだったり、なれない機織り機で当時不足していた布地を織ることだったりした。

終戦翌年、町中が大火で消失したときも、燃え続ける町を後にして、ありったけのお金で近在の材木を買い付け、焼け野原の町の隅に、小さな家を真っ先に建てた。まだ32才の頃だっただろう。父は戦場で「生死不明」だった。「町の淀君」と称されるほど口うるさかった姑は、使用人の家に避難してしまい、母の建てた新しい家に戻って来て、小さい家だと文句を言ったというが、この時から家の実権は、母に移行してしまったのは明らかだった。

あの悪夢のような戦争が終った後も、母は父の生死不明の公報を、生きているという方だけ信じた。「生死不明と言うことは、死んだと言うことではない」と、、、消息をつかむために、いつも人を動かし、情報を手に入れようとしていた。北支方面からの復員兵があると聞けば、父の写真を持って会いに行き、「この人間を見なかったか?」と聞いた。何人めかの人の話で、父が生きているらしいことがわかった時の、なんとも表現のしようもない泣き笑いの母の顔をはっきりと覚えている。

その情報のおかげで、父は戦死せずに中国延安に拘束されていることをつきとめることが出来た。これを知るやいなや、、入手困難な汽車の切符を手に入れて上京し、当時の共産党幹部であった野坂氏に、つてを頼って面会を申し込んだ。父がいかに「S家」と「会社」の為に必要な人間かを切々と訴え、どうか家族の元に返して頂きたいと懇願したのだという。その時「分かりました、尽力します」と言った野坂氏の約束は程なく実行され、父は復員帰国したのだった。母はその後、ことあるごとに言ったものだった。
「野坂参三は本当の紳士だ」、、、と

庶民の「米」を手に入れるための戦争?!も、物凄かった。闇米の買い出しは禁じられていたが、そんなことを守っていればみんな飢え死にした時代だった。母の知り合いは、米を担いで汽車に乗り、折悪しく検閲に引っかかり、やむなく走っている汽車から飛び降りて、命を落とした。没収された「命の米」はどこへ消えたのだろうか、あまりの命の軽さだった。この時の怒りと嘆きが、父を政治家にするために自分が縁の下の力持ちになるという「覚悟と力」になったのではないかと思っている。

時代が落ち着き、55才になった頃、中途半端だった「お茶」を始めた。そろそろ記憶力の衰えてくる年齢にさしかかっていたであろうに、ややこしい手続きをふむお茶のお点前に没頭して、とうとうお茶名を貰い、お茶室を建て、お弟子さんに教えるまでになった。

いつも何かを始めて、それをやり遂げてしまう人だった。そして子や孫を集めるための広さがほしいと、キッチンの改築をはじめ、そこで力尽きたのだった。今にして思えば「いい死に方」、「らしい死に方」だった。

後に残った老いた父がポツリと私にこう言った。

「おかサマは、ワシという人間が物足りなかったんではなかったかな、、、」と

それを聞いて、なぜか慌てた私は、

「そんなことはないでしょ!おとサマを大事にしてたじゃない!」と、声を高めた。

この父にも「いい死に方」をしてほしい、、否、その前に「老いを創めて」ほしい。あなたにはいつもあの母がついているじゃないですか!

老人が幸せに生き、死ぬためには、「住居」「経済」「人間関係」「健康」の四つが不可欠だと日野原Drは書かれている。そしてこれらがみんな揃っている老人は数少ないと、、、

何とかしてこの条件をクリアして年齢に命を与え、おそれずに死を迎えることが出来るように、今日の日を、自分らしい姿勢を貫き通して生き、今から「死のレイアウト」のための「生」を創めなければなりますまい。
(2002.6.15)
   
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