「作りかえのきかない過去なんかない」
寺山修司の年表
(19 歳から29歳)

1955年(昭和30年)19歳
河野病院を退院するもネフォロ−ゼを発病。新宿の社会保険中央病院に生活保護法で入院。この入院は4年つづく。
パリはたったまま眠る。
たったまま眠れたらどんなにいいだろう。
この頃、横になっても中々眠れないのだ。
詩劇グル−プ「ガラスの髭」組織し、早稲田大学緑の詩祭の旗揚げ公演に戯曲第一作「失われた領分」を書く。
この忘れた領分」を見たことにより谷川俊太郎は寺山を知ることになる。入院中の寺山を見舞いレコ−ドプレ−ヤ−をプレゼントた。
1956年(昭和31年)20歳
大学を中退。絶対安静がつづく。
失恋しました。僕、やせました。僕、背がのびた。今に見よ。(中野トク宛の手紙)
私は、今から思えば少年時代を通して悲劇的なものを求めつづけていたように思われる。そして、悲劇的なのを求めることが、もともと英雄的なものだとする、きわめて日本人的な自己形成をつちかってきた。競馬にしても、ボクシングにしても劇にしても、同じことであった。
だが病床にいてしかも「悲劇的なものが予め与えられている時代」を遠望しながら、その上、どうして悲劇をさがす必要などあうだろう。ラジオの浪花節のスイッチを、パチリとひねり消してつぶやくぎんちゃんの
「こんな悲しい身の上で、その上悲しい物語をきく必要なんかないわ」
という言葉ではないが、もはや感情の高い密度を保証するものは、消して悲劇などではなくなってしまっていたのである。
一本の樹にも
ながれている血がある
そこでは血はたったまま眠っている
(中略)
その頃、砂川斗争カラ安保斗争へと、時代は蠢動しはじめていた。私は、1日おきに輸血し、月に一度は危篤状態に陥入るようになっていたが、遺書だけは一度も書いたことがなかった。
地下水道をいま走りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種あり
私は身長1メ−トル73、体重65キロ、血液型ABで22歳、得意な歌は「誰が故郷を想わざる」であった。(「誰が故郷を想わざる」)
スペイン市民戦争文献、ロ−トレアモン、鶴屋南北、上田秋成カフカ、マルクス「経済学・哲学草稿」、泉鏡花、を濫読していた。このころ同室の朝鮮人に賭博、競馬を教わったらしい。
1957年(昭和32年)21歳
第一作品集「われに5月を」刊行(作品社)
海を知らぬ少女を前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり
エッセイ集「はだしの恋歌」(的場書房)を刊行。 私のもっているのは新書館から再刊されたものですが、いまも手に入るのかな。「砒素とブル−ス」「祖国喪失」「記憶する生」「トカゲの時代」などを作歌。ネルソン・オルグレン「朝はもうこない」に感動。
ことしは年賀状、84枚きました。来年は168枚その次は326枚にしたい。つまりそれほどみんなに僕の生き方の選択を共鳴して欲しい。(中野トクへの手紙)
「砒素とブル−ス」
地下水道をいま通りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり
「祖国喪失」
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
「記憶する生」
胸病めばわが谷ふかからんスケッチブック閉じて眠れど
1958年(昭和33年)22歳
病院と新宿歌舞伎町を往復生活。夏退院して一時青森に帰る。再び上京し新宿諏訪町の一
間のアパ−トに住む。賭博とボクシングに熱中する。「空には本」(的場書房)を刊行。
ノミ屋の電話番、ディ−ラ−などの仕事をする。
窓もカ−テンもない、がらんとした空室で、私は「これからどうしたいいものか」と途方に暮れた。入院中、ベットが隣だった韓国人のテキヤからもらった一枚の酒場の名刺だけが、頼りだった。(中略)
私が名乗ると、相手は「金さんから電話もらっている。」と言ってくれた。仕事は、電話番で、週三回(金、土、日)だけでよい、ということである。(中略)
カウンタ−の下にはテ−プレコ−ダ−が一台あって、その会話を録音できるようになっている。要するに私の仕事は私設馬券屋(ノミ屋)のウケ番なのだ。(中略)
そのころ、「女性自身」という風変わりな誌名の週刊誌が創刊され、ジャイアンツに入った長島茂雄が新人王となった。東京タワ−が完成し、街は活気にあふれていた。
ノミヤの電話番の次は、デ−ラ−だった。たまたま酒場のカウンタ−でトランプの一人占いをしているのをみた支配人に、「おまえ、なかなか筋がいいじゃないか。」と言われたのである。(黄金時代「消しゴム」)
1959年(昭和34年)23歳
谷川俊太郎のすすめで書いたラジオドラマ「中村一郎」が民放祭大賞を受賞。堂本正樹ら
と集団「鳥」を組織。処女シナオ「19歳のブル−ス」を執筆。
1960年(昭和35年)24歳
放送劇「大人狩り」が、革命と暴力を煽動するとして、福岡県議会で問題となり、公安から取り調べをうける。久野はこのころ2作続けて受け取った寺山の作品に関して奇妙な事実に気がつく。
三幕劇「血は立ったまま眠っている」が劇団四季によって上演される。16ミリ実験映画「猫学」を演出。言語と肉体の結合の試みとして「贋ランボ−伝」「直立猿人」などを発表。土方巽と出会う。サルトル「ある指導者の幼年時代」を愛読。初めてのテレビドラマ「Q」を書く。
「乾いた湖」に出演した松竹女優九絛映子と出会う。「乾いた湖」篠田正浩監督作品。寺山の脚本で九条映子出演。 連日の手紙と電話による攻勢により九条もいつしか心を許すようになったという展開。
1961年(昭和36年)25歳
ボクシング評論を開始。ファイティング原田に出会う。文学座アトリエにて「白夜」を上演 土方巽、黛敏郎ら6人とアバンギャルドの会で「猿飼育法」を上演。映画「夕陽に赤い俺の顔」「わが恋の旅路」のシナリオを書く。「塚本邦雄論」を書きはじめる。長編叙事詩「李庚順」を「現代詩」に連載。「ジャズをたのしむ本」(湯川れいこと共編)久保書店
1962年(昭和37年)26歳
人形のための実験劇「狂人教育」をひとみ座により上演される。放送叙事詩「恐山」を執筆。実験映画「檻」を監督。関西学院大学の学生だった山野浩一と知り合い、競馬場へゆく回数が多くなる。テレビドラマ「一匹」のシナリオを担当。唐十郎と出会う。
第二歌集「血と麦」(白玉書房)
きみが歌うクロッカスの歌も新しき家具の一つに数えんとす
1963年(昭和38年)27歳
九条映子と結婚。 4月2日吉祥寺カソリック教会にて挙式。立会人は谷川俊太郎夫妻、それに九条の両親と弟妹らが列席するだけのこじんまりとしたっものだった。寺山の友人の立木義浩により記念撮影。永福町に新居を借りる。
もちろん母のはつの結婚には初めから反対し、れを振り切り寺山は九条との生活を始めたわけで、はつの息子の裏切りに対する怨念についてのエピソ−ドは恐ろしいほどのものがある。
大学にて「家出のすめ」を講演、「現代青春論」としてまとめ刊行(三一新書)谷川俊太郎、佐佐木幸綱との共同制作詩「祭」を試作。インタビュ−、尋ね人、詩朗読、犯罪レポ−トなどの構成によるドキュメンタリ−番組「ダイナマイク」を1年間担当す。
1964年(昭和39年)28歳
塚本邦雄、岡井隆らと「青年歌人」を組織する。放送詩劇「山姥」がイタリア賞グランプ
リを受賞。 放送詩劇「大礼服」により芸術祭奨励賞を受賞。仮面劇「吸血鬼の研究を書く
1965年(昭和40年)29歳
戯曲集「血はたったまま眠っている」(思潮社)を6月に刊行。九条流産。8月、第三歌集「田園に死す」(白玉書房)を刊行。
大工町寺町米町仏町老母買う町あらずやつばめよ
11月評論「戦後詩」(紀伊国屋新書)を書き下ろす。放送のための叙事詩「犬神の女」が第一回久保田万太郎を受賞。長編小説「ああ荒野」を連載開始。芸術生活に空想旅行記「魔の年」を連載。シンザン三冠馬となる。早稲田大学の劇団「なかま」が「血は立ったまま眠っている」を上演、その演出をした東由大加に出会う。
テレビインタビュ−番組「あなたは・・・」で芸術祭奨励賞を受賞。