蕎麦ひでり

蕎麦ひでり



 このところ、蕎麦らしい蕎麦を食っていない。蕎麦に渇いている、と言っていい。私の住んでいるのは横浜の東横線沿いだが、まあ鎌倉や翁のある甲斐方面は別として、手近なところで蕎麦らしいものを食おうとすれば、東の方、多摩川を越えて東京に出なければならない。どういうわけか、横浜にはよい蕎麦屋がないというのが目下のところの私の偏見だ。ここで謂う蕎麦とはもちろんせいろのことで、手早く酒を啖ったあとにたぐるのは冷たいこれでなくてはいけない。冷たいうちの辛味は擂りおろした山葵で、山下洋輔兄はこの香りを「高貴な」と形容していたが、さらし葱とともに喉を通過するその峻烈さは蕎麦っ食いにとって、仏に逢っては仏を殺す如き刹那の歓びの時である。蕎麦をひとしきり平らげたあとで頼む蕎麦湯は、何か鍋のあとの雑炊に似たちょっとした仕立てを思わせて、食い切りでないこのひと手間が蕎麦を確かに頂いたという実感につながり、このときはやはりたっぷりとした葱と、入れる辛味は七味唐辛子に替わる。かく倉卒な蕎麦食いには何故か暇な時間が似合っていて、そういえば最近蕎麦らしい蕎麦を食っていないと思う。  葱よしと蕎麦湯に散らすやげん堀         解酲子

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