まぎらわしい

まぎらわしい ――一棒や有るか無きかの冬の僧  解酲子



 耳の錯覚や誤解というのはわりあいあるもので、タモリの空耳コーナーではないが、例えば「ボタンとリボン」の歌の最後の部分は「button and bow」であるが、女房はこれを「罰点棒」としか聞こえないと言い、私はこれを「漠然坊」と聞く。食い物でも同じ類の例は多々あって、ちょっと高級な和食の店でカキを注文するときには牡蛎か柿かを注意しなければならないし、ワラサを頼むときには鰆と言ってしまいがちである。イタリア料理におけるカルパッチョとカルトッチョはたいへんまぎらわしいが、前者は生肉の刺身で後者は魚介の紙包み焼きとまったくの別物だ。またタイスキをタイ国のすき焼きと誤解しておられる向きも圧倒的に多いのではないか。まあ、鍋物には違いないが。いつか友人の父親が新潟に旅行して、そのとき直送して寄越した新鮮な鱈一匹の御相伴に与ったことがある。絶品はその肝臓だったが、以来新聞などで「たられば思考はやめよう」などという社説を読むたびに何となく生唾を飲む仕儀となっている。そういえばむかし、私のおやじが横浜港で鰈の大物を釣ってきたことがあったが、それをおふくろは何を思ったかカレー粉をつけたカレー揚げにして食卓に出したのは、幼心に深く首肯される料理法ではあった。

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