幻の味

幻の味



 若い頃に食って印象が強く、それから再びお目にかかっていないものの味は、歳月とともに朧気になるようでいてあのときのあれはうまかったという思いがいや増すのは年のせいであろうか。一つきりでないそれらには、あたかも日本の詩に詞書があるごとく若年特有の時間や事情が書割のように存在していて、思い出すたびに当時の私事が立ち上がってくる仕掛けになっている。まず、女に振られて遊びに行った京都で、あれはやはり四条近くであろうか、鴨川沿いの大衆飲み屋で何気なく頼んだ冷奴が、口に含むと柚子の香りがぱっと立ったのにはさすがに京都だという感を深くした。外はまだ日の残る夕暮で、酔っていったのは酒のせいだか豆腐の香のためだか判らなくなって女を忘れた。もう少し若いとき、学校退学記念に挙行した無銭旅行では金沢に立ち寄った。なけなしの金を握って入った洋食屋で出てきたオムライスにはカツレツのぶつ切りがごろごろぶち込まれていて、食い盛りをいくらも出ていない身にはその値段と共に感涙を誘った。あれは、夢ではなかったのか。もう一つ、前途の見えない生業に屈託して行った奥多摩の、谷川の茶屋で昼酒に出された山葵の茎の醤油漬は鮮烈な味で、これはその気になれば今も食えるというが。

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