酒を酢にする美徳

酒を酢にする美徳



 酢のことを考えてみると、あれが存在するところには必ず酒も存在するはずなのは理の当然である。農業史の古島敏雄先生によれば先生幼少のみぎり、御実家は酒をたしなまれなかったので、盆暮れの贈物の酒をたいてい酢にしてしまったそうだが、これをああもったいないと思うこととはまた別に、そういうたやすく酢に変じてしまう酒が出回っていた頃の日本というのもなんだか豊かに床しく感じる。酢といえば料理で、三段論法に従えば料理のあるところまた酒もつきものということになるが、ミクロネシアあたりの島嶼には酒のない文化も存在するらしい。だがしかし、これはアルコールというものをたしなまないだけで、儀礼のときなどには何かの根を搗いた汁を飲んでおおいに「酔っ払う」というから人間のやることに変わりはないようだ。ちなみにこの汁ははなはだ不味だそうで、私などは食べ物とともの愉しみのない、酔うためだけの水というのはいかがなものかと考えてしまう。ミクロネシアにはできれば行きたくない、というよりはミクロネシアにはもう戻れないというべきか。ただし、このトーキョーという文明の真っ只中の店や路上で、エスノロジックな興味の対象となる儀礼を演じている手合いは老いも若きもよく見かける。

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