銀座のアマダイ

銀座のアマダイ



 宰相のせがれで文学者の故・吉田健一氏がその名を聞くと取り乱したものは鰯だったが、私が取り乱すのはさしずめ甘鯛だ。関西でグジと呼ぶこの魚の身はきわめて濃やかで女性的で最後の皮まで舌にからみついてきて、食い終わったあとにはなんだか大いくさをした気分になる。あの震災前の神戸でこれの酒蒸しを試みたときは、眼のしたの頬肉を友達に取られて本気で恨めしく思った。若狭グジというくらいで、関西だけのものかと考えていたら最近では(といってもここ十年ほど)築地にも静岡産のものが入っているようで、銀座の魚屋でこれの西京漬けを見つけたときはうれしかった。だがしかし予約制で片身売りで片身七千円はおいそれとは手が出ない。ある年の春先、珍しく切り身で甘鯛が置いてったので購入に及んだ。包んでくれるとき「好きな客は生の身にみそだけ塗って焼くんだぜ」と言ったおやじの顔が甘鯛に見えてきたのは春の幻だったのか。
         
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