1997/02/25(TUE)

1997/02/25(TUE)



きょうはアイソトープの検査があったのだが、この検査に立ち会ってくれた先生が、とてもいい人だったので少し書いておきたい。横になっているだけでいいこちらとしては簡単な検査なのだが、なにしろ50分の長丁場であり、その上、頭を調べる時など、目の上すれすれまで機械に覆われてしまうので、圧迫感が強く、わたしのように閉所恐怖症の者には相当な不安を強要する。そこでそのことを言うと、なんとこの先生は、わたしの不安を緩和するために、50分の間、休みなく話しかけてくれた上、最後の段階では、「あと100秒!」といった感じで、一緒になって100を数えてくれたのである。ほんとうに助かった。おかげで、50分がそれほど長さを感じさせず、思ったよりも遥かに早く過ぎた。「あと10分!」といわれた時は、耳を疑ったほどだったのである。ほんとうに、最近これほど気持ちのいい人ははじめてだった。先生、ありがとう。
このエピソードで、わたしは、自分がよくしてもらったことに主眼をおいてものを言っているが、それは一面的な見方であって、自分が誰かに、この先生がわたしにしてくれたようにしてあげることをも考えなければ、この経験の意味がなくなる。こんなに気持ち良くアイソトープの検査を終えることができたことを、今度は、誰かに分かちあうには、この先生がわたしに接したように自分が誰かに接すること、以外にはないのだ。

いちばん重要な問題。いうまでもない、ナーダのことだ。なぜそれを書かないのか。なにもわざわざない話題を絞り出さなくても、泉のようにいつも湧き出ている話題がちゃんとあるのに。いちばん重要な問題。最重要事。ナーダだ。泉となって湧き出るナーダだ。ナーダももう決して若くはない。ナーダも若くない。精いっぱい無理を押しているが、ナーダも生身である。いつどうなるか分からない。明日、倒れるかもしれない。それを考えることはあまりに辛いが、しかし、それが真実である。しかし、ある意味では、ナーダはわたしを裏切ったのだ。あれほど死ぬときは一緒だと言ってたのに、彼女はわたしの自殺に反対している。彼女がわたしの自殺を幇助してくれさえすれば、わたしのこの不安、ナーダが倒れるという不安からは自由になれるのだ。これは勝手な理屈だろうか。勝手といえば、もともと自殺など勝手の最たるものではないか。ナーダのことを思うというこの不安を解消するために、わたしは自殺を決意したようなものなのだ。わたしはあまりに弱いとされるだろう。わたしが自殺を選ぶ最大の原因は、ナーダに先立たれることに耐えられないからだ。
このことに関して、これ以上何も言いたくはないし、また、言うことはない。
いや、そうじゃない。ことこの問題に関する限り、わたしは何も言えていないし、はっきり言って何を言う資格もありそうにないし、要するに全然ダメだ。

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