1997/02/24(MON)

1997/02/24(MON)



わたしたちは言う、もう二月も終わりか、早いもんだなあ。だれかが相槌を打って、そうですねえ。ついこの間、お正月だったのに、もう三月……。しかし、実際はそうじゃない、といったほうがいい。月日が過ぎるのは決して早いとも遅いともいえない速度だし、お正月が三月になるのだってきのうきょうの間に起こったわけでもない。確かに、「光陰は矢の如し」ではあるが、わたしたちは実感よりも紋切り型を優先する傾向にあるらしい。もう二月も終わりか、早いもんだなあ、と気がついたら言ってしまっているのである。まったく、光陰にも矢にもそれから月日にも笑われてしまいそうなお話だ。
と言ったところで、この笑われてしまいそうなお話は、実際に月日に笑われて殺されてしまったのか、それきりおしまいになってしまう。もうどうあがいても、このお話が生き返って新しい展開を示すようなことは起こりそうにない。このお話は、笑われただけで未来永劫に消えてしまったも同然だ。笑われて煙のように消えてしまうだけのお話もあるのだ。
いや、お話というものは、大半がそんなもんじゃないのだろうか。むしろ、煙のように消えてしまうだけのお話で成り立っているのが、わたしたちの生ではないのだろうか。生は煙でできている、と言えなくもないのだ。
そうだとすれば、そうしたお話も、捨ててはおけない。決して疎かにはできない。

さて、穏やかで暖かな日和だ。ナーダが買ってきたガーベラ、スィートピー、ミニ薔薇が狭い部屋中のあちこちを飾っている。ナーダは、愛らしい花が好きなようだ。わたしは、花に関してはかなり好みが違う。わたしなら、こうした花々に対して、純白のカラーの花一本で対抗するだろう。可愛い、綺麗と、目の楽しみで花を活けるのがあまり好きでない。ほんとうに愛する一輪を食べ尽くすまでに毎日味わっていたいのだ。トルコ桔梗でも都忘れでも、ストレリチアでも、何でも、とにかく、その花がこの部屋で息をしはじめてから、すっかり枯れ果ててしまうまで、それこそ嘗めるように、味わい尽くすというのが、わたしの花との交際法だ。
この意味で、わたしは花に関しては、かなり貪欲で残酷といってもいいほどエゴイストであるかもしれない。つまりわたしは、アンリー・マチスの絵を眺めるのと同じ流儀で花々に接しているのであろう。違いはただ一つ、花が枯れ果てるのに対して、印刷されたマチスの複製画は決して枯れることがないということだ。

わたしはどうして、花に関して、あるいはマチスに関して実践しているような付き合い方を他のもの、たとえば、文章やビデオといったものに関してはやらない、あるいはやれないのだろう。たとえば一つの短編、小説でも評論でもいいが、を花やマチスの絵の場合のように、味わい尽くすというようなことがあっただろうか。なぜないのだろう。いや、ないとはいえないが、あったとしても印象が薄いのだ。文章と絵画とは別物なのだろうか。思えば、花や絵画がもたらしてくれる最大のものは喜び、幸福感であろう。音楽にもそれはある。あるいは映画はどうだろう。あると答える人が多いと思うが、わたしの場合はどうか。どうも、美が与える至福感ということに関して、映画や文学は、絵画と音楽に一歩を先んじられているような気がするのだが、いかがなものだろうか。それともこれは、わたし個人の主観的感想にすぎないのか。
参考までに、この種の幸福感のベスト1を挙げておく。それは、ナーダとの抱擁だ。性的なものではない。これはほんとうの至福であり、この瞬間は病いさえも癒されているといっていい。芸術作品はどれ一つこれには及ばない。完璧といってもいいと思う。ところでいまふと気がついたのだが、詩はどうなのだろう。一遍の詩は、一本のカラーの花に比肩しうるか。美しさ、喜び、幸福感においてどうだろう。確かにそうしたことを感じさせる詩作品は存在する。『春と修羅』がそうだし、身近なところでは『娼婦論』や『水駅』にもそうした至福を味わわせてくれた詩が含まれていた。ただ、詩の場合、絵画に較べてそうした例は、ほんとうに希なことだ。少なくともわたしの場合は、希有といっていい。

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夏際敏生日記2 [1997/02/23-1997/03/20] 目次| 前頁(1997/02/23(SUN))| 次頁(1997/02/25(TUE))|