1997/01/29(WED)

1997/01/29(WED)



眠れない。就床するやあっけなく目がさめてしまう。おかげで、これを書く時間は増えるいっぽうで有難いことだ。書くことがあればの話だが、ほんとうはそうではなく、書くことがうまく見つかればの話なのだ。そうだ、書くことは、ないのではなく、うまく隠れていてなかなか見つかりにくいのである。うまく隠れているものを、うまく見つけだす。なかなかに微妙なものがある。

話が飛ぶが、芝山幹郎という人間について、面白いなと思ったのは、かれが金の話をしている時だった。金はプロが扱うもので、素人は単に生活のための金しか頭にないというのだ。金は、極道や芸能の道と同じで、その道の玄人というのがいるらしい。そして、芝山氏自身も、一時、その道に身をおいていたらしいのである。その辺がなかなかに面白く、話の内容よりも、ほんとうはかれのその時の話ぶりそのものがなかなかカッコよかったのであった。新しい魅力を見つけた気がしたものである。

きょうは箇条書スタイルになりそうだ。芝山氏のエピソードが切れた瞬間にそんな予感がある。いいではないか、箇条書スタイル。

書くことは喜びで、楽しみで、無理に書くのは邪道である。
しかし、わたしはいま、明らかに無理に書こうとしている。邪道だ。
邪道の極意を見つければいいんじゃないの?
邪道の極意を箇条書で挙げよ、なあんちゃって。(これいずれ真面目にやります)。
ナーダ(ととりあえず呼ぶしかないが)という女性はまったくなんという人間だろう! わたしはつくづく感嘆の念を禁じ得ないのである。
なんというエネルギー、そしてなんという愛の大きさだろう!
わたしとしては、なんとか、この巨大な力と愛とに報わねばならない。
そしてこの報酬は、書くことによってしか、なされ得ないのである。
わたしは、書くことをもって、彼女の力と愛の巨大さに比肩する力と愛とを、実現しなければならない。それが、彼女に対するわたしのマナーであろう。
彼女はわたしにとって限りなく大きな存在である。
そして、その大きさは、日増しに絶大なものとなっていく。
彼女は、宇宙のように膨張しているのだ。
さて、それにしても、まさにこの文脈にすでに明らかなところだが、わたしはやはり、書くことを義務として考えている。例の邪道というやつだ。
どう見ても、書くことを「純真に法楽」する道とは別の道だ。
わたしは、書きたいのではなく、書かねばならないと思っているのだ。
だが、はたして、ほんとうにそれだけなのだろうか。
こんな風に、不自由な体を押して書いているところをみると、これで案外、書きたいという欲望に従っているようにも思われてくるのだ。
ただ、そこに義務感が色濃く漂うのは、よりよく書きたいという願望がなせる業ではないか。もっといえば、最高のものを書きたいという渇望が、わたしをして、MUST を使わせるのではないか。さらにいえば、最高の詩の観念だ。最高の詩を書きたい、という悲願といってもいいものが、確かにわたしのなかには巣くっている。
つまり、わたしに必要なのは、義務の観念を捨てて、法楽に向かうことではなく、「よりよいもの」への願望を義務としてではなしに、もっと、楽しんで捉えられないか、ということであるらしい。つまりは、端的に言って、もっとリラックスして書けないか、ということに尽きるのではあるまいか。

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夏際敏生日記 [1997/01/21-1997/02/22] 目次| 前頁(1997/01/28(TUE))| 次頁(1997/01/30(THU))|