1997/01/22(WED)

1997/01/22(WED)



早朝6時30分頃、目が覚める。
起きても何もすることがないのはわかっているのに、まるで習慣と化した動作を行なうように、布団を剥いでいる。
トイレに行って帰ってくると、途端にもう何もない。
傍らでやはり目覚めている、しかし、手で目を押さえてまだ眠る意思表示をしているナーダに声をかけるしかない。
しかし、わたしが言ったことというのは、起きてもすることがない、どうしたらいいだろうという、まるで子供っぱいものだった。
彼女は、いま相手ができないから、その、どうしたらいいかという気持ちを、そのまま書きなさい、と言った。で、わたしは、こうして、スクリーンにむかったわけだ。

人間は、やることのない時間を、なんとか自分で工夫して、自力でつきぬけなければならない。それが人間のお仕事というものだ。わたしの場合は、こうして、一語、一語、言葉を発することで、無為の時間を泳ぎきっていくしかないのだ。
これができるということに、むしろ、感謝すべきだろう。
キッチンのテーブルの上で、昨日ナーダが買ってきたアネモネが花びらを開いて、咲き誇っている。毒々しいまでの開花ぶりだ。アネモネは、こうして、無為の時間を泳いでいく。そして、やがて、枯れてしまう。それまでの間、アネモネは、時間にひび割れを生じさせるほどの力強さで、無為を圧倒する。

こうして、今わたしは、アネモネと肩を並べて、冬の朝を泳いでいる。
相手が相手だけに、いきおいこちらも泳ぎに力が入る。負けてはいられない。
そのうちに鳥たちが目覚めて鳴き始めるだろう。
そうなったら、三者競泳だ。

そういえば、太陽だって元気に泳いでいる。
いっぱいの光に満ちて!
風も泳いでいる。みんな無為の時間の泳ぎ手たちなんだ。
めそめそしてたのは、わたしだけだったんだ。
わたしたちは、自然のなかで、どうしてもっと気楽に、自在に、振舞えないか。
わたしのように、めそめそしてばかりいる馬鹿者が多いからだろうか。
もっと、自然に、当たり前に書けなきゃあ嘘だ。
もっと、自由に、自在に、泳げなきゃあ嘘だよ。
アネモネのように、とまでは言わないし、鳥たちと同じくとも言わないけれどね。
それにしても、もう少し楽しく遊べなきゃあ嘘だと思う。
もともとわたしのなかには、そうした遊びのセンスというのが備わっている、それも意外にふんだんに備わっていると思うんだけどね。
もともとかなり自由な精神の持ち主だしね。めそめそしてることはないんじゃないか。
書くことが義務になっているうちはダメだ。
書くことは純粋に喜びなんだから。だって、何一つすることがない時に、書くことが選ばれたということは、別に義務としてそうされたわけではないだろう。そうではなくてそれが他の何にも増して、楽しいことだからだろう。
もう一度思いだしておこうよ。賢治さんの名言。

《断じて教化の考えあるべからず。ただ純真に法楽すべし。》

考えてみれば、実にその通り、つまり、賢治さんの言う通りなんだね。
だって詩集を編むこと、出版することなんて、純粋な喜び以外の何ものでもないもん。これはほんとうに小さな世界の話で、この詩集の刊行に携わってくれるごく限られた人々だけに関わることなんだよね。
この人々は、この詩集を出版に値すると認めてくれた人々であり、そのためのさまざまな労を取ることを引き受けてくれたのだ。
あとは、この詩集がどんな運命に出くわそうが、あまり関係ない。
とにかく、本になって、出ればいいのだ。出さえすれば、満足なんだ。完全に自己満足の世界ですよ。けっして、スケールの大きなお話ではありません。
わたしが見たいのは、本になって出た詩集であって、そこに書かれてある一篇一篇の詩そのものではないのかもしれない。
このことに関しては、わたしのようなものでも、一つくらいは夢中になるものがあったんだ、というある感慨がありますよ。まあ、夢中というか、憑かれていると言ってもいいだろうね。ほんとうに、ちっぽけな、とても個人的な、まあ、ヘボ道というかね。そんな傍道に這入りこんじまったんだあね。ちょいと出られそうもない。
そして、そのことが妙に嬉しいんだね。自分が、どうしようもない道楽にウツツをぬかしているという自覚が、ワクワクするような快感につながっている。
これは、いまのわたしにとっては、とてもとてもいいことなんですよ。こういうものこそが、ほんとうに必要なものなんだって気がする。
しかも、これまた奇妙といえば奇妙なんだけど、このテの道楽は、これ一つで沢山という感じがある。それくらいに、このヘボ道にはすっぽりとハマりこんじゃってるということでしょうかね。

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夏際敏生日記 [1997/01/21-1997/02/22] 目次| 前頁(1997/01/21(TUE))| 次頁(1997/01/24(FRI))|