1997/01/21(TUE)

1997/01/21(TUE)



さあて、少し考えてみよう。
詩を作るということは、どういうことなんだろうか。
それはほんとうに、文学とか、芸術とか、そうしたものに属する事柄なんだろうか。
どうもそうは、思えないフシがある。
少なくともわたしの場合、それは、なんという奇妙な、恐ろしい、気違いじみた仕業であることだろう。
そこに芸術の香りなど、薬にしたくもありはしない。
詩に向かう時、わたしは自分が、ばらばらの破片になって飛び散りつつある何かの爆発現場の部品であるようにしか感じられない。
わたしにできることはただ一つ、デタラメに飛散していくことだけなのだ。
詩作の現場、これ以上に惨憺たる場所は思い当たる限りでは一つしかない。
そのもう一つに関しては、ここでは紹介を省略する。
だいたいこのわたし自身にしてからが、詩人、芸術家の類に属するにんげんだろうか。そうとばかりは言えないことを、知り尽くしているのが、他ならぬこのわたしではないだろうか。
先ずわたしは、恐ろしく空虚な人間である。
自から進んで積極的にしたいことというのが何もない。
ほんとうは何もしたくないのだ
読書などほとんどしない。本を読まない詩人の存在など、仮定すらできないだろう。
わたしは本を読みたくない。読書は先ず、10分とはもたない。
こんな人間が、蛍光灯の光を浴びて、立ち尽くしている、というのがわたしの実像ではないだろうか。
しかしそれにしても、そんなわたしに一つだけ、輝いているような一郭がある。
おかしなことかもしれないが、それが詩集の出版なのだ。
これに対する思い入れは、並々ならぬものだ。
詩を作るというのは、ほんとうに空しく馬鹿げた、正気の沙汰とも思えない所業だけれども、これは、またそうであればあるほど、一人では完結しない営為であるように思える。書かれたものは、そのままであれば、戯言以外の何ものでもない。だからこそ、これを評価する他者がどうしても必要になるのだ。
一人でも二人でも充分である。そこに仲間が存在することで、詩作品は、はじめて息をし始めるのである。

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夏際敏生日記 [1997/01/21-1997/02/22] 目次| 次頁(1997/01/22(WED))|