回復を待つ呼吸 ――布村浩一『ぼくのお城』(昧爽社、1995.7.15刊)

回復を待つ呼吸 ――布村浩一『ぼくのお城』(昧爽社、1995.7.15刊)
丁田杵子


 80年代は、なにか、今よりずっとめまぐるしい時代だったと思う。いや、大きな事故や愕然となるような出来事は、最近の方が多いのかもしれない。それでも、今は淀んだ時代であって、それに対し、焦燥や不安に駆られながら、とにかく疾走していたのが、あの頃、80年代だったと言えるのではないだろうか。
 たとえば、TBSのドラマ、「男女七人夏物語」、同じく「秋物語」などが思い出される。おしゃれに元気に、複雑に絡まり合う恋に熱狂しているようでいて、心もとなさそうにも寂しそうにもみえる主人公たちだった。大ヒットした主題歌、スピーディで軽快な、にもそんな雰囲気は映り込んでいた。夏と秋、どちらの主題歌がそうだったか憶えていないけれど、前奏から車のクラクションや軋むブレーキの様な、不吉ともきこえるノイズが使われていた。

 布村浩一氏の詩集、『ぼくのお城』は、「あとがき」に、《89年12月、ぼくの精神が折れた後に書いたもの》とある。巻頭に配された表題作、「ぼくのお城」は、正に80年代の終焉に、精神が瓦解する瞬間を描写したものということになる。

 ぱぴぷぺぽ
 ぼくのお城はがたがただ
 ぱぴぷぺぽ
 ぼくのお城はゆられてる
 ぱぴぷぺぽ
 ぼくのお城はこわれるぞ
 ぱぴぷぺぽ
 ぼくのお城は川のそば
          (「ぼくのお城」冒頭部分)

 さきの「男女七人」の主題歌前奏にも似て、いや、遥かに性急で破綻を感じさせる音調とリズムで、「精神が折れた後」の世界にひきこまれていく。指揮をとっているような、でも実はバラバラに宙に突き出されているだけの腕によって描かれた直線が、加速され、ガクガク折れ曲がって渦を巻いて、最後には目にもとまらぬ速さで一点に収束していってしまう、そんな、抗いがたい力がある。
 渦を収束させる力は、直截に、読む者の心をしめつける力としても作用する。
 のっけから悲痛をしたたかに味わわせられながら、こわれた心の世界へいざなわれていく。

 そして、その世界は。なんというか、「絶望した人間のしぐさと反応とまなざしと感じ方の展覧会」のようなところがある。
《煙草を吸う。消す。煙草を吸う。消す。》(「横浜」)、《コーヒーを飲んで、畳に寝っころがり、指をかざす。》(同)、《ぼくは透明な風で/意味のない風で/記憶のない風で/暗くもない風なのだ》(「折れた風」)、《大きな時計の下で ぼくは 耳と声をとじていく/大きな時計の下で ぼくは 覚えていられなくなる/大きな時計の下で ぼくはまたデパートにもどろうとする》(「横浜」)、《ない 声が欲しくならない/ない 水が欲しくならない》(「風の方向」)等々。

 ああ、そんなところにいつまでもいてはいけないのに。それはあぶないことなのだ。
《牛久駅で後悔/千六百円もとられて/だまって出して/牛久駅で後悔》(「牛久の話」)、《何かを考えるときがきたので/店にははいらないほうがよかったと考える》(「横浜」)、後悔にずぶずぶと絡めとられる。
《ぼくは小さな点になってしまった/この点のなかから出られない》(「雲のない空」)、《ぼくは透けてる/ぼくはみえない/ぼくは街の中心にいるのに/みえない》(「街の中心」)、自分が縮んでいく、薄れていく感じ。それは、すでに狂気の波打ち際である。

 読んでいて辛い。はらはらする。
 最初はそんな想いばかりが表だっていた。
 しかし、いつからか又違う感覚を喚び起こされていたことに気づいた。後には、そちらがより重要で、主な印象になっていった。
 それは、底部で痛みが続きながらも、落ち着いた、静かで深い感覚である。
「回復」という言葉と関係があるようだ。
「ぼくのお城」がこわれた後に綴られたこと、それらは全て《回復のための行為》(「あとがき」)であった。
 ここで大事なのは「回復させる」=「癒す」ではない、ということだと思う。
「癒す」という言葉も、この詩集中に何回か使われてはいる。《額に傷が残っていて/この癒し方はさみしい》(「帰郷」)、《まだ癒すこともわからず幽霊のように街を歩いたあの夜》(「説明」)、《グルリと回って帰ってくると/癒すことはできない/しかしすべての歌詞を思い出している》(同)と、正確には3回。
 だが、「癒す」には、ここで話者のとっている姿勢よりも、より積極的で、ちいさな奇跡めいた飛躍または飛翔をともなうような語感がある。
 ここにあるのは、やはり「回復」をじっとまつものの姿というべきだろう。

 冒頭の「ぼくのお城」のスピード感に対し、2編目以降は、少し足をひきずるように、じっくりと運ばれていく。身体を、あるいは心を構成する細胞が、自然に再形成されるのを妨げないような、ゆるやかで深い呼吸のリズムがある。
 深手を負ったけものが本能的にえらびとる身のこなしで、たちどまり、なにかを見つめ、耳をすまし、ひろいあつめ、などしていく。
 そこには、おごそかで心うたれるものがある。
 深い呼吸のリズムに自分も同期していくとき、さきに述べたような落ち着いた感覚を得ることができる。肺胞の、普段はつかわれていない奥底まで酸素が到達していくような。

 きみのなかにペニスを入れているとき
 ぼくは単純な男だった
 単純な男になれてよかった
 (中略)
 20年ぶりにセックスをして やっぱりセックスは大きなものだと思ったよ
 あこがれたり はなれたりしないためにも セックスは必要だと思った
 上に昇ることをやめて まっすぐに歩道を歩く
 何が待っているだろう
 とにかく これからしばらくは
          (「今を超えないように」部分)

 長い暗黒の日々があってはじめて醸されるような、じっくりしたセックスの感慨。全篇中でも、最も好きな箇所のひとつである。
 引用部の最後が、《とにかく これからしばらくは》となっていることを、なにか、とても大切に感じる。
 ここで、「もう、これで大丈夫だ」みたいに立ち直ってもよい筈だ。本当は時期尚早であっても、ここで、よっしゃと気合をいれてみてもいい。というか、常識的にはその方が人間にとっていい。
 これも既に述べたことだけれど、いつまでも、壊れた世界にたちどまっているのは、とてもよくない。だから、しばしば「癒し」ということは求められるのだ。とにかく、地面をひとけりするための、小さな魔法は。
 けれども、ただその場にとどまって、ふかく呼吸しつつ回復させるしかない傷もあるのだ。次第に深い沼からの瘴気がたちこめてくるような場所だとしても。
 安易に一条の光をさしこませて締めくくらない、自分の状況を正確に感受して表現する底力を、恭しくうけとめたい。

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