長尾高弘作「きみの色」−少年にリンクする父性

長尾高弘作「きみの色」−少年にリンクする父性
丁田杵子


 長尾高弘さんは、「リンク」を大事にするひとである。
 インターネットのウェブ上で彼の公開している、詩人や出版社のホームページへのリンクを集めた「詩関連リンク集」(*1)を辿ることは、詩に関心のあるひとが関連ページを見つける最良の手段である。日頃は詩を読まないひとでも、ともすれば舌たらずな断片になりがちなウェブ上の文章にあきたらず、ととのった作品を読みたいというのであれば、おおくのものを得るだろう。
 長尾さんには、もう1種類、「親戚知人他人へのリンク」というリストがある。大学時代の学友や、パソコン通信で知りあった友人のホームページへのリンク集を含んでいる。実は、光栄にも私自身、パソコン通信をきっかけとしておつきあいさせていただき、
後にリンクしていただいたひとりである。
 そのリストには私にとっても懐かしい名前がたくさんある。もう、たまさかのメールのやりとりすらしなくなった、けれども、ある時期には夜ふけまで語り合い、ふざけあったひとびとを憶いだすのにかなったページである。
「リンクをはる」という行為は、具体的にはそれぞれのホームページの所在の記述子であるurlを、各人の名前と結びつけるだけのことである。旧友たちに呼びかけて、単発的に、または定期的に連絡をとれるようなすべを提供するわけではない。
 バラバラにちらばった紙切れをかきあつめ、しっかりホチキス止めするのではなく、大き目のリングでゆるやかにまとめておくにとどめておくようなもの。
 おしつけがましいところはまるでなく、且つふるいつきあいを今もわすれていないことが伝わってくる、そんなリストをつくり、ふるびないように手を入れている長尾さんである。

 現在ウェブ上でよむことのできる長尾さんの詩、「きみの色」(*2)にも、そうした人柄がよくあらわれている。


  ずいぶん透き通ってきたものだね。
  きみは、
  自分がどんな色だったか覚えているかい。
  色々なやつが、
  きみにべたべたとペンキで色を塗って、
  お前はこんな色だと騒いでいるけど、
  あいつらは、
  きみが透き通っていて、
  向こう側が見えてしまうことに、
  耐えられないだけさ。


 電子メールで送ってくださった長尾さん本人の解説を助けに、ひとりの無色の肌をもった少年を思い浮かべてみる。
 かぼそい手足、そして、無色の肌は少し緑色がかっているかもしれない。縁日で裸電球の下にならべられている、合成樹脂でできた、このままでいる限り、誰かの特別な宝物となって末長くいつくしまれることはあまり望めないようにみえる、あの人形たちのような肌。
 彼がこの世界にやってきたのは、「自分の色」をみつけだし、世界に彩りをそえるもののひとつになるため。まちがわずに、たしかに選びとろうと、彼はゆっくりとまわりをみわたす。
 ところが周りの連中というのは、もう、なんだかわけのわからない、まだらやらだんだらやらマーブルやらに塗ったくられている自分たちなので、まだ色がないものをそのままにできない。
 手に手に筆、刷毛、スプレー缶を持って少年に襲いかかり、<赤、青、白、黒、/それとも金色や銀色?>のペンキをなすりつけようとまなじりを決する。
 塗りたくりたがるひとびとの滑稽な熱心さを嘲笑できるくらい権高な少年であれば、森茉莉の描いたような<きれいな芸者の目つき>で冷たい一瞥をくれて、さっさと逃げ出すところだ。
 しかし、この少年はちがう。ペンキは合成樹脂めいた肌にまったくなじまない。表面にひとたび弾きかえされ、もりあがる玉となり、そして鋭い針をかたどってもぐりこみ、心臓に、肺につきささっていく。
 この世のなにものにも染まらぬものだけを痛めつけることができる責めに、悲鳴をあげることもできず、もともとなかった色をさらになくしていくばかりである。
 いまにも絶え入りそうな苦痛にゆがんだ透明な肢体に、私は息をのみ、そのことと、自らも塗りたくりたがるひとびとに与することとにおそれをなす。

 というようにことばに写しとり、だいぶ余計な暴走までしてしまうのは、私のような野暮天のするところ。
「きみの気持ち、いたみはいくらかでもわかるよ、これこれこんなだろ」と安直にいうような長尾さんではない。いや、長尾さんの描きだす「父性」は、そうはしないのである。そんなことを安易にしないのは当たり前だというのは簡単だが、だったら、どんなすべがあるというのか。


  それにしても、
  あのとききみは、
  どんな色になりたかったんだい?
  (中略)
  夏の日ざしを浴びたら、
  少し濃くなった自分の色に気付く、
  なんていうのは甘いかな?


「父性」は、おだやかに少年の横にたたずみ、寄り添っている。かぼそい腕とふれあわんばかりのところに、おとなの男の腕がある。
 ペンキで染めたのでない、いくたびかの夏をしのいでいくうちにおのずから色を獲得していった腕。わきの下の汗のにおいや、火照った腕の放射する熱気とともに、「こういうやりかたもあるのだよ」というかたりかけが伝わっていく。そのよびかけには、少年が息をふきかえすに十分なだけの、しずかなつよさと誠実がある。
 きわめて近くにいるのかもしれないあるおとなの男のひとがこういう詩を書いたことを、年少のひとびとに知ってほしい。

(*1)
http://www.longtail.co.jp/links.html
(*2) http://www.longtail.co.jp/bt/ff.html

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