甄后(しんこう)の枕

甄后(しんこう)の枕
丁田杵子(tiki)


 文学者高橋和巳は1931年に生まれ、1971年に没した。昨1996年は、没後25周年であり、河出文庫から「高橋和巳文庫コレクション」が刊行された。
 私は浅学にして、この高橋和巳なる人をほとんど知らない。子どもの頃、大人向けの文芸雑誌をたまにパラパラめくったり、他の小説家の文庫の解説などを読んでいるときに、随分よく出てくる名前だなと、思っていた記憶がある程度である。1960年代に相当な読書をした人々には、忘れがたい感銘をあたえた文学者なのだろう。
 その河出文庫のコレクションの中に、『李商隠』という唐詩の註解書があることを、インターネットのチャットで知り合った方から教わった。
 私が化成時代の漢詩人、頼山陽の出身地広島に移り住んだのは、つい昨年、たどたどしく漢詩の拾い読みを始めたのはそれ以降になる。なんとも覚束なげな漢詩とのおつきあいなのだが、本屋にも殆ど並んでいない関連書籍の一冊を気楽なチャットの中で思いがけなく紹介され、運良くもその直後に文庫売り場で発見し、購入することができた。
 頽唐の詩人李商隠(813-858)には、憂いと陰影の豊かな、特異な美しさを湛えた作品が多いということだ。「無題」とされているいくつかの恋の詩も、歓喜ではなく、悲哀を詠っている。


【七律「無題」より後半(頸聯(けいれん)及び尾聯))】

賈氏窺簾韓掾少
[フク]妃留枕魏王才
春心莫共花爭發
一寸相思一寸灰

([フク]はウカンムリの下に「必」)


【読みくだし文】

かし すだれをうかがいて かんえんは わかく
ふくひ まくらをとどめて ぎおうはさいあり
しゅんしん はなとともにひらくをあらそうことなかれ
いっすんのそうし いっすんのはい


【高橋和巳による解釈より抜粋】

 この家の令嬢が、香をたかせ、化粧の水を汲ませるのは、恐らく、晋の世の大臣、賈充(かじゅう)の娘が、父の宴会を青い簾ごしにのぞきこみ、韓寿(かんじゅ)なる若い書記官をみそめたように、誰か心に慕う人あってのことだろう。しかし、魏のひと甄后(しんこう)が、文才秀でた弟の曹植(そうしょく)に心寄せながらも、兄の曹丕(そうひ)に嫁がせられたように、いずれは死後のかたみに贈る枕でしか、思いを遂げることのできない悲運に泣かねばならぬのではあるまいか。
 うら若き人の春の心よ。それ故に花ときそってまで、その心に恋の花を咲かせようとしてはならぬ。一刻の愛の燃焼は一刻ののちに灰を生み、一寸の相思(こい)はやがて一寸の死灰となること必定なのだから。


 典故を弁えて引用するのは、作詩法の基本であるようだが、李商隠の極めて得意とするところでもあった。第六句は、三国時代の故事による。
『三国志』の英雄、曹操孟徳(そうそうもうとく)(155-220)の第三子、曹植(192-232)は幼い頃から詩文に巧みであったが、長兄曹丕(187-226)とは、不仲であった。文学を好むことは曹丕も同じであり、文学批評の先駆といわれる『典論』を著している。
 この兄弟の親である曹操が又、詩才ある人であった。一昔まえまで、劉備、関羽、張飛、諸葛亮等、「善玉」びいきのワリをくっていた曹操だが、最近はオールマイティな最強の君主であったとして、人気が高いようだ。コンピュータで遊ぶシミュレーションゲームでの使い勝手の良さも、一因かもしれない。
「信長の野望」など、すぐれた歴史シミュレーションゲームを多く出してきた光栄が最近復刻した、「三国志ゲームボーイ版」での曹操の各パラメータ(100点満点)は下記の通りである。

【曹操】体力88、知力95、武力91、魅力95。

 李商隠の詩に関わってくる兄弟もゲーム中に登場する。

【曹丕】体力85、知力83、武力70、魅力85、
【曹植】体力74、知力91、武力19、魅力85。

 彼等の通信簿が残っているわけではあるまいし、こうした数値を絶対視する必要はどこにもない。しかし、『三国志』というのは、非常なマニアの多い書物(群)で、彼等がなめるように研究した史実や伝承が、ある程度、このゲームデータに反映しているはずだ。「仮に、原則としてはこういう能力値があてはまるとしてみる」というお遊びの立脚点も、一ゲームファンとしてなら、許して頂けないだろうか。
 父曹操の傑出した能力と比べると見劣りしてしまうけれど、どのパラメータも70以上あれば全198名の武将の中ではかなり優秀だといえるものだ。立派な息子たちである。
 弟曹植の武力が19というのは、ゲームのコマとしてはまずい。いくら賢明な内政をとりおこなっても、隣接する国々とのいくさに勝ち抜いていかねば、「中原の覇者となる」という、最終目標は達成できない。
 しかし、武力の低さは、柔美で典雅な趣味やものごしの裏返しの可能性がある。女性には圧倒的な人気を博す曹植であったかもしれない。
 自分より弱虫のくせに、ちょっと頭がよくて、おそらく作詩では、とうていかなわないところがあって、女にモテル弟を、兄が苦々しく感じだしたのは、いつごろだろうか。
 ものごころついて以来の確執なのか、少し長じてからなのか、そこまではわからない。
 やがて曹植がみそめた娘を、父曹操は兄曹丕にめあわせてしまう。甄后である。
 この后は、しかし、曹丕とこまやかに心を通わせあう、寵妃とはならなかった。娘時代に恋した人を忘れかねていることを隠そうともしないのを、不興がられたのか。詩人に恋されたように、自らも文学少女でエキセントリックな性格であったのか、これも詳しいことはわからない。(あ、文学少女=エキセントリックという主張をしているわけではありません ^o^)。
 結局、寵愛うすい、後宮では弱い立場であっただろう甄后は、謗りをうけて早世する。220年10月、曹丕は後漢の献帝の禅譲をうけて文帝として即位し、洛陽の宮殿に住まう。
 後、所用で兄の文帝にまみえた曹植は、甄后の遺品の枕を贈られる。
 愛した女が、別の男と交わしていた枕を、その恋敵から贈られるとは、どういう気持ちのするものであろうか。
 ついにうちとけず、征服しつくした感を与えてくれなかった女が死んでから、その持ち物だけ、彼女を愛していた男にくれてやる曹丕はゆがんだ勝利を感じていたのか、それとも、否定しきれない敗北感に、苦い顔つきだったのか。
「七歩の才」という、これも曹丕曹植兄弟にまつわる故事がある。
 曹植の詩才をねたんだ曹丕が、なにかのきっかけで「七歩の間に詩をつくらないと、処刑する」と言い渡す。曹植がたちまち作った詩は、みごとな出来であるうえに、兄弟の仲たがいを悲しんだ心にくいものであった。


【五言古詩「七歩の詩」】

煮豆持作羹
漉菽以爲汁
 [キ]在釜下燃
豆在釜中泣
本自同根生
相煎何太急

([キ]はクサカンムリの下に「其」)


【読みくだし文】

 まめをにて もってあつものをつくらんとし
 まめをこして もってしるとなす
 きは かまのしたにありてもえ
 まめは かまのなかにありてなく
 もと どうこんよりしょうぜしに
 あいいること なんぞはなはだきゅうなる


 この故事をみても、兄曹丕は、弟にはりあう気持ちが強く、なにかにつけ、勝った負けたと拘らずにおられなかったという気がする。帝位についても、そうしたざらつく感情は払拭されなかったのではないかと思う。
 曹植は、そんな兄を残して宮城を退出する。帰り道、洛水のほとりで、甄后の霊に出会う。霊は、曹植をずっと愛していたのだと話しだす。
「今こそ、私の枕を貴方にさしあげましょう」と告げる。
 このエピソードが、[フク]妃という洛水に身を投げて川の精となった娘を詠んだ曹植の代表作「洛神の賦」の動機となった。
 血なまぐさい戦乱にあけくれ、身内にさえ、猜疑や嫉妬のまなざしを絶えず向けずにはおられなかった乱世の武将たち。その陰で、ひっそりと短い一生を終えた悲劇の美姫の一人が、この甄后だといえる。
 しかし、恋人の夢枕にたった彼女の霊には、私は恨みがましさを感じない。
 恐らくは手の込んだ刺繍なども施された、高貴な女性に相応しい繊細な枕を抱きかかえて眠っていただろう、その晩の曹植。一生をかけて愛した男の元に、今やっと自分の枕が届き、こんなに大事にされている。
 そんな光景を見て、自分の積年の想いは、遂に成就したのだと、安堵の長い吐息をついている光景が思い浮かぶ。
 現し身ならぬ蒼白く透けた体のまま、その枕に頭を托して、しばし添い寝を楽しんだかもしれない、満ち足りた寝顔で。そうであってほしいものだと願う。

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