粉流と堆積――ネットワーク上の言葉たち、物たち(1)

粉流と堆積――ネットワーク上の言葉たち、物たち(1)
清水鱗造


「言葉と物」というと、M・フーコーの1966年の著作『言葉と物』を思い出す方が多いと思うし、僕が書こうとする内容と多少の考えの一致があるかもしれない。もともと、ネットワーク上の言葉を考えるときに、ほかの本に引用されていたフーコーの『知の考古学』の「アルシーヴ」(資料集成)という概念を見たときに、この文章の発端にする分析するアイデアとして、示唆されたということはある。
 絶え間ないおしゃべりと絶え間なく投稿される電子の記号を媒介にした詩、これらをどう心に整理していけばいいのか、ということは単純に浮かぶ問題である。たとえば、この「うろこ通信」ではすべてここに書かれたものをHTMLの形にして、Webページに読めるようにして、世界中に粉流としてなげうつことに目的がある。ここにある詩やエッセイが、言葉の価値としてどう受け止められるか、はまた別の問題であり、ローカルに分析され、コミュニケーションの手段として使われることも別問題である。たしかにここに書かれた詩がたまたまこのFCVERSEというBBS(電子掲示板システム)またインターネットのWebページから、ほかの媒体へと引用され、また紙に印刷される媒体への著作者の許可のもとで、流れていくことはありうる。しかし、資料集成という意味からすれば、篩にかけられるという意味で、その価値は大幅に減るだろう。また、資料集成ということではなく、既成の詩の流通や価値の意味からすれば、編集の意図が働いたもうひとつ別の資料集成に移行あるいはコピーされたということもできる。
 この、ネットワーク上内部の言葉ということからいえば、現在、言葉の流通は新たな手段を手に入れたということができるし、より言葉の資料集成がやりやすくなった状態を提供する手段を手に入れたということができる。まぎれもなく、新しい資料集成が生まれている、といっていいと思う。この手段によって言葉の内容自体が大革命を起こしたということは早計であるし、まず、既成に行われていた「おしゃべり」「議論」がそのまま、この手段上に載ったということができるのみである。しかし、大きな新しい可能性を手にしたというのは確実だろう。
 すでに始まっている、1985年ごろからこれは始まっているのであるが、この手段による資料集成は、ごくごく小さな「優しさ」や感情の震え、生活上であったことを絶え間なく書き綴ることができることに特徴がある。いうまでもなく、常に表現への欲望、伝え合うことの欲望を人間はもっている。だから、生産性の増大やテクノロジーの発達と並行して起こる、社会変容からの「伝え合う」ことの危機感も資料集成に反映される。危機感といったがこれはたんなる「不安」とも、「渇望」とも言い換えられる。僕たちの時間の使い方、感性の持ちよう、はまた僕たちが時々刻々と変える世界によって変えざるをえない。ここに不安が生まれるが、かならずしもそれは「危機感」というマイナス記号で表わすこともないと思う。しかし、その不安の行方、在り方自体が、これらの資料集成には事細かに記されているという、今までにはありえない状態で提示することが可能なのである。
 仮にこれらの資料集成に対する態度を措定してみよう。もともとBBSに書いているとき、書き手はこの新しい手段について、それ自体について考えているわけではなく、泳ぎ回っている。僕たちは粉流が堆積する、その時間を刻々と見ていくことができる。たぶんこの態度が、新しい伝達手段の特徴を暗示している。

|
目次| 前頁(美容院嫌い(4))| 次頁(甄后(しんこう)の枕)|