バスキア感でんし

バスキア感でんし
阿ト理恵


 去る11月19日晴れた水曜日。1980年代、ニョーヨークの白人優勢のアートシーンをひっくりかえしてしまった画家ジャン=ミシェル・バスキアの初の回顧展をわくわくどきどきしながら観にいった。1988年8月12日金曜日ロフトで急性混合薬物(アヘンとコカイン)中毒にて27歳で夭折。キース・ヘリングなどといっしょで、地下鉄やストリートなどの壁のらくがきアートシーンから生まれた絵だ。
 展覧会場に入った瞬間からバスキアはいた。ここにもあそこにも、あらあら、こんなところにもって。会場の空間、空気もすべてバスキア。日比野克彦(この人の作品もわたしは好きだ)が紹介している文を読んで、深くうなづいた。少し、かいつまんで引用する。
「ピカソはえがいているけど、バスキアはかいている。バスキアは何かの形にしようとしているわけではない。目的は、線を描くことと、色を塗ること、ただそれが目的であり、したいことなのである。自分の中にあるものを描いた。自分の中にあるものは血である。DNAである。画面の上に、次から次へと、体の中から引き出しては、放り込んでいった。途方もない数であった。一本の線が、目から入って、我々のDNAと結合する。バスキアの絵は、スポーツである。運動神経である。訓練された運動センスではなく、生来血が引き継いだDNAのつながりからきているのである。バスキアの筆は、疲れ知らず、迷い知らず、動き続ける・・・」
 まさに、その通りであった。わたしが特に気にいってしまった作品「Exu」。まんなかに本人らしい人物がおり、人のまわりに目がいっぱい描かれている。頭のうえに「EXU」Xが四角くかこわれている。とても意味深だ。EXUという単語は、わたしの辞書にはなく、この後に続く単語が6つくらいあった。歓喜、元気、にじみでる。充満。大得意。大はしゃぎ。きっと、バスキアは、いっぱいの意味をつめこんだんだと思う。この人の絵のなかには、とても自然にあってしかるべき空気のように単語が描かれている。音符もしかり。すべては、サイン。そして、そのサインに新しい命を与えようとしているように思えた。新しいとはとっぴなことということではなく、むしろ、純粋で無垢で赤ちゃんのように原点にかえるという。彼の絵のなかには、好きな文字、好きなキャラクター、人がいっぱい登場している。自分も登場する。ある時は、ジャズのメロディが聞こえてきたり、ヒップホップが立てのりしてたり、バスキア自身のおしゃべりが聞こえてきたりした。喜びだけではなく、悲鳴だったりもすることもある。痛痛しい叫びだったりもする。つまり、彼の絵は、彼のそのものなのだ。マドンナのメッセージにもあったが、マドンナにあげた絵をバスキアは、とりかえしたという。それは、誰かにうられてしまうのではないかということだったらしい。
 アンディ・ウォーホルに認められながら、ファンに恵まれながらも、彼は、孤独だったのではないだろうか。愛せるものは、自分と自分の描いた絵だけだったのではないだろうか。絵を描いているしかなかったのだろう。描いて描いて描きたおして、たおれてしまったのだろう。人には与えられた時間が決っているらしい。彼はねずみの時間を生きていたのだろう。休むことを知らなかったのだろう。誰か、教えてあげればよかったのに・・・。しかしながら、やはり疾走する生き方しかなかったのだろうバスキア。でも、バスキア、あんたの絵は失踪してないぜ。

『バスキアはあたしにこう云う。「MY NAME IS BASQUIAT、ところで、あんたの名前は?」初めて出逢って親しくなる時の基本じゃないか?って知ってたつもりが、忘れかけていたことであった。「あたしの名前は阿ト理恵です。ところで、あん
たの名前は?」バスキア、あたしの頭のうえに、とびきり上等な金の王冠をちょうだい! もちろん、バスキア、あんたの頭のうえには、金ピカの王冠が輝いているぜ。ずっとずっと、21世紀になってもな。最高に再考させてくれたバスキア。あたしのなかにあんたは生きている』
 わたしは、バスキア自身に、バスキアの自信に、バスキアのビートに感電して、感伝詩を書きたいと思った。わたしのからだ丸ごとはいったシビれるような詩を。

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