「天安門」と悲劇の構図

「天安門」と悲劇の構図
奥主榮


 BOX東中野で、ドキュメンタリー映画「天安門」を見た。
 十年前に起き、最低限一世紀の間は、機会があるごとに語られる事件を検証した映画であった。

 3時間強に及ぶにも関わらず、映像として記録に残っているものを、可能な限り収めようとしたようなこの映画で、画面から注意力が逸れる瞬間は、全くなかった。
 関係者の証言と、報道映像として残されたものとを緻密に編集した「映画」は、圧倒的に「誰もが体験し得る悲劇」を、見ている私自身に突きつけてきた。

「天安門」に関して、事件が起こった当時報道されていたのは、「解放」や「民主化」を主張した学生が、国によって弾圧される姿であったと記憶している。
 しかし、この映画が描いているのは、そうした政治の次元でのプロパガンダではなく、もっと神話的な、歴史の「悲劇」の構図なのではないだろうか。

 映画は、導入の映像以降は、「天安門広場」という存在が、「中華人民共和国」という国にとって、どのような歴史的背景を負った場所であるかという検証をまず描く。そこから、一つの国の歴史をなぞり、さらに十年前の事件の詳細について、残されている記録を編集していく。
 必要な場合には過去にもう一度戻り、検証を繰り返す。歴史的な事件について、愚直なまでに正面から内部へと切り込んでいく。

 その中で浮かび上がってくるのは、「救国」という理念に囚われた学生達が、疑うことなく純粋に、あきれるほどに救いよう無く非大局的であることによって、自分達自身の着地点を見失ったまま、自滅へと突っ走ってしまう姿である。
 余りに強く掲げられすぎた理念は、政治というシステムの中では、個人の思惑など超えて、弄ばれる対象でしかない。国というシステムと、個人という思惑に囚われた存在との間の齟齬が、避けようのない事態へと至る過程は、神話的な悲劇の構図のように思えてならなかった。

 事件の後日について描いた最終部分は、余りに不明解な結論に終始しているようでありながら、記録映像の発し手の結論が曖昧であることによって、かえって受け手の解釈の自由度を容認しているようで、心地よかった。(1997年6月15日)

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