電脳という身体性
電脳という身体性
大村浩一
ケラの会という詩人の集まりがある。毎月一回、月始めの頃に渋谷に集まり、詩に限らず幅広い話題を扱って勉強しようという主旨の会だ。
今年の始め頃か、日本未来派の例会で田熊健さんから、私が1996年の世界詩人会議でお知り合いになった村山精二さんが、パソコン・ネットワークでの詩の現状について「ケラの会」でレクチャーするから見に来て欲しいと言われて、私は張り切って出かけた。
村山さんのレクチャーは優れたもので、境野 勝さんの詩集「海峡」や、私や奥主さんの以前のFPOEMでの書き込みなども取り上げてくれたので、嬉しかった。
その後の焼き鳥屋での飲み会で、村山さんと隣りあって声高にネットワークの効用と詩の将来とか話題に話していたら、向かいに座った私には初対面のおやじが加わって、いつか3人でツバ飛ばしあう大激論となった。パソコンは今までの情報機器の延長か否かとか、パソコンで詩をやるならメリットを生かした新しい事をやらなければダメだ、とか。
その中で、おやじの「パソコンとは第3の言語である」という発想が、私には強く印象に残った。話し言葉が第1言語、文字が発明されて出来た書き言葉が第2言語ならば、高速な伝達性や絵や音の加わるマルチメディアとしての新たな特徴をそなえたパソコンによるコミニュケーションは、もはや新しい言語によるコミニュケーションと呼んで良いのではないか、と彼は言うのだ。
私はその時さらに、その第3言語:マルチメディアは、ライブな話者の息遣いや身振りも伝え得るから、性格はむしろ第1言語に近づくものになるのでは、と思った。
別れ際に名刺を頂いたら、そのおやじこそ、雄山閣の芳賀章内さんだった。肩書きを見て「ひええ」と肝を潰し、翌日神田の三省堂で棚にひしめく雄山閣の本を見て、さらに「しえええっ」と肝を冷した。もう少し気をつけて口をきかないと、現代詩ギョーカイでは生き延びられないなァ、とつくづく思った。
* * *
閑話休題。
なぜこんな話をしたかと言うと、実は芳賀さんの「第3言語」に近い発想を、前回で取り扱ったマーシャル・マクルーハンもやっているのだ。というか、これをより鮮明にしたのは、後年彼の理論を受け継いだウォルター・オングだ。
メディアの変遷は、次のような明朗な4象限図で説明出来る。
〈歴史的なメディア変容の、積層構造〉
複製性
4)現代 ↑ 3)近代
電子媒体 | 紙・印刷
TV・コンピュータ 電 子←−−−−−−−−活 字 出版・新聞
(全感覚/場所の ↑ | ↑
電子的複製化) | | |
身体性←−−−−−|−−−−−+−−−−−|−−−−−→文字性
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口 承−−−−−−−−→筆 記
1)古代 | 2)中世
文字文化以前 | パピルス・写本
↓
一回性
古代、それも文字が発明される以前。最初の身体技術としてのメディアとなった「言葉」とは、まず口語の「話し言葉」であった。
それは人間の肉体にとって具体的に鼓膜を震わせるもの、聴覚的な、五感の相互作用が生み出す触覚的傾向を持つものだった。
だが「話し言葉」は保存出来ないし、正確な伝承が難しい。このためにメロディに乗せての歌による口承なども工夫されたが、やがて絵を簡略化した、視覚的な表音・表意の記号である「文字」が作られた。文字なら反復して参照出来、写本にして正確に世界に広めたり、蓄積保存して参照する事も出来る。
ただ文字では、話者の身体性を持った聴覚的傾向の情報はそぎ落とされる。まさに「メディアはメッセージ」。文字によって均質化したことばや詩は、機能だけでなく意味あいでも、それまでとは異なるものに変わったのだ。
文字を使って発展を続けた人類のテクノロジーは、グーデンベルグの印刷機の発明により、ついに「文字」を「書籍」を量産する事を可能にした。
それらが導いた産業革命による多量の中産階級の出現は、彼らの経済発展の要請から急速な科学技術の進歩を促していく事になるが、一方では新聞・出版などの大規模なマスメディアによる近代的な権力構造を出現させ、「文学」も否応なくこの体制の中に組み込まれ、その意味や位置づけを変えていった。
そして「活字」により大進化を遂げた近代のテクノロジーは、20世紀に入り遂に電子メディアを出現させる。
レコードや映画、ラジオといった新しいテクノロジーは、文字・活字によるメディアが諦めていた、話者自身の個人的な聴覚・触覚を蘇らせ複製し、社会に爆発的に増殖させた。
それはそれまでの「文字による」均質化した人類の経験と、それと分かち難く結びついてきた文字による文学・芸術に対する価値観を大きくゆさぶるものであった。新しいメディアの出現は、ふたたびことばの意味や「ことばによる経験」のありかたを変えたことになる。
戦後、驚異的な経済発展とともに電子メディアはさらに発展し、テレビとなりコンピュータネットワークを産むに至った。ビデオ、CD-ROM、ホームページ…マルチメディアの加速度的な発展により、映像や聴覚など電子的複製としての話者の身体性に、電子的な回線を通して多数の人間が同時に接するのは、今日ではごく普通の日常事となった。
口承→文字による写本→印刷・出版→マルチメディア(身体性の回復)……この永い歴史的なループを、今の私たちは直接「ショートカット」出来てしまえる時代を生きている。
異論はあろうが、今や私たち個人個人の身体はホームページや商用BBSなどの電子メディアを通して、直接世界に接続して表現を達成出来るところにまで来ている。
「バーチャル・リアリティ」という言葉は、「バーチャル」という仮想性・幻覚性の意味よりも、それまでのメディアでは叶えようがなかった身体性、すなわち「リアリティ」の意味あいこそが重要なのだ。
近代に入ってから最近までの詩人たちの、特に口語自由詩の「朗読」への意識の変化は、こうしたメディアの積層しながらの歴史的な変遷を通して見なければ、その本質を見誤るのではないだろうか?
朗読とは、文字・活字が現れるはるか昔には詩人自身のものであり、文字・活字の出現から忘れ去られた手法だった。またその逆に、今日の朗読の興隆は、それまでの活字による、経済・文化の発展がもたらしたものだ。
ホームページが「文字で書かれている」という現実に象徴される様に。歴史的なメディア変容のプロセスとは、一方に他方が重なって進んでいくものであり、先行するメディアの文化は構造的変化こそすれ、消滅するものではない。詩集や本が不要になるなどという事は、決して意味していない。
だが他方、文字というメディア、出版というメディアが太古からの詩の意味やあり方を大きく変えたように、マルチメディアもまた詩や言葉の意味を大きく変えていく。
「メディアはメッセージ」なのだ。パソコンを通して見る詩は、同じ文字で書かれたものであったとしても、書籍で見る詩とはもはや別物の、新しい意味と命を吹き込まれた表現物なのだ。
私たちがコンピュータ・ネットワークに自分のテキストや朗読音声データを置くのは、鈴木志郎康さんが以前言われたように、電子化というフットワークを与えられた「詩の言葉」が、どれほど自由に動き回り浸透し、世界のなかでの詩の意味づけを変えていけるかを、私たちがこの目で見たいからだ。
マルチメディアは、これまでもっぱら「本」という閉じたテキストに依って来た「詩」のありようを、ドラスティックに変えていくだろう。
また「機械は人間性を疎外する」などといった単純な決めつけは危うい。機械が聳えるものなら、その隙間に入り込むのがむしろ詩人の果たすべき役割ではないか、そう私は思うのだ。
メディアは社会を構成しながら社会に構成されている。メディアを変容させていく相互作用は、私たちことばの使い手、つまり詩人の側からも積極的に働きかけて起こしていくものだと私は思う。
1980年に死んだマクルーハンは、実際にインターネットのWorld-Wide-Webや、商用ネットワークの電子掲示板を見た訳ではない。
しかし、彼の電子メディアと言葉に対する基本的思考は、急激に発達する情報化社会のありようを把握するための大きな手がかりを私たちに残した。
参考文献:岩波書店 岩波講座現代社会学22「メディアと情報化の社会学」
|目次|
前頁(七月七日が晴れても ――大原まり子短編書評)|
次頁(「天安門」と悲劇の構図)|