七月七日が晴れても ――大原まり子短編書評

七月七日が晴れても ――大原まり子短編書評
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 織り姫の名はベガ。光度0.0、青く、極めて強く光る琴座の首星。恋人のアルタイルは、やはり青色で光度0.8。年にただ一度、清夏の夜に, 鳥達が連なって天の川に橋をかける。そのはかない浮き橋だけを通い路とする二人であることは、誰もが知っている。
 ところが、サザンクロス目指して走る機関車に乗ったジョバンニ少年の見聞によると、鳥が橋をかけてくれると信じきってはいけないのかもしれない。少年の出会った鷺取りは、そもそも《さぎというものはみんな天の川の砂が凝ってぼおっと出来るもの》だと語る。だから、天の川に帰って来た鷺は、《雪の融けるように縮まって扁べったくなって、間もなく熔鉱炉から出た銅の汁のように砂や砂利の上にひろがり、二三度明るくなったり暗くなったりしているうちに、まわりと同じいろになってしまう》。
 鷺だけでなく、総ての天の川に降りたつ鳥達が、星砂に返ってしまうものだとしたら、ベガとアルタイルは逢えない。向こう岸の恋人の冴えた青いすがたに、遠くむきあうだけ。

 うっちゃんとサヨコの二人も、触れあうことのない恋人だった。人類滅亡の年、1984年の前年に出会った。大原まり子の連作短編、〈薄幸の町で〉(1983)、〈有楽町のカフェーで〉(1984)(共に『銀河ネットワークで歌を歌ったクジラ』(ハヤカワ文庫)所収)の主人公たちである。
 うっちゃんがサヨコに出会ったのは、彼女がひきこもっていた自分だけの世界から、ようやく外へさまよいだしてきた頃だった。彼女と現実の間にかかる靄は、しかし、晴れてはいない。サヨコの完璧な容姿に周囲があまりにも過剰反応するために、フィルターとなるものが必要なのだ。
 サヨコはイタリア製の自転車に乗っている。それ以上ありえないほどの繊細な、ブルーグレイに輝くその自転車を駆って、うっちゃんに会いに来る。《一本の長い長いライン》となって。
 それほどまっすぐに走って来る彼女なのに。うっちゃんはサヨコにさわれない。サヨコをつつむフィルターは、決して壊してはいけない。1984年のひどい風邪が、人類を殲滅する時は、もうそこまで迫ってはいても。

 そう、人類は、遂にどの星にも届かずに滅んでいく。だとしたら、彼等の綴った宇宙を舞台とした沢山の物語は、あれは、いったい何だったのだろう。そう、うっちゃんはSF作家だ。届いたばかりの雑誌に載った彼の作品では、主人公は、超小型超空間駆動機構(ハイパー・スペース・ドライブ・システム)内蔵個人用宇宙艇で、銀河にでていく。もう、ただひとつの人工衛星もうちあげることのない人類にとって、この、雑誌の最新号に掲載されている話は何なのだろう。

 SFは、しばしば「届かないやるせなさ」の物語だ。時を超えて、次元を超えて、遥かな生命にめぐりあっても。文字通り天文学的な確率の、特権的邂逅であっても。SF的宇宙での出会いは、なぜか、最初から、ひときわくっきりと別離が透けてみえるようだ。遂に届かない、他者であるなにものかの前で凝然とするために、宇宙ロケットは、タイムマシンはSF内に登場するのだろうか。

 それにしても、うっちゃんとサヨコは地球上の恋人同士だ。せめて、なにか小さな鍵でもあれば、ね。なんて、脇からいう必要もなく、「新宿西口のコインロッカーのカギ」は、サヨコからうっちゃんに渡される。今度は、うっちゃんが自転車で、死にかけた東京を行く。都立大学から、新宿へ。ロッカーはちゃんとある。鍵は開く。そこには……。

 そこにあるものがなんであれ、うっちゃんがそれをみた瞬間、この物語の、ひとつのフラグが立つのだ。この「届かない」物語のプログラマー、SF作家大原まり子は、「うっちゃんがロッカーの中のものをとる」イベント発生と同時に、「サヨコを登場人物リストから削除する」を発生させる。

 うっちゃんには、もはや凍り付くことしかのこされていない。読者も共に、たちすくんで、サヨコの面影を振り返るだろう。冷たく白いサヨコ。真夏の太陽に輝く自転車の上で、《熟したトマトのような色をした可愛い顔》だったサヨコ。大原ワールドに相応しい、その完璧な美少女は、超高温で燃え続けながらも冷ややかに青白い琴座の首星に、ここで再びかさなっていく。

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