時間の隙間を集めること――貞久秀紀『空気集め』(思潮社、1997.8.11刊)

時間の隙間を集めること
――貞久秀紀『空気集め』(思潮社、1997.8.11刊)
清水鱗造


 ユーモアというのは、とても真面目な事象にとても不真面目な事象を結びつけて弛緩させ、緊張をパッと一時的にほどくという現実的効用がある。そこには比喩が介在するから、比喩が何なのかあるいは新しい比喩の方法を考えている詩の作者に無縁ではありえないし、ユーモアには時代的なものも反映される。
「うろこ通信」前号で書いた神尾和寿の詩も、夢のなかでの出来事のような時空の断絶をもたせた物語の構成のなかにふわふわしたものを表していて、新鮮なユーモアを感じさせた。貞久のこの詩集もふわふわしたものを醸成しているが、言葉の論理は彼なりの方法で崩れさせている。

「小さくなったなあ」
成長するわたしを叔父はからかい
「これをかぶればもっと
小さくなるぞ」
鶏を殺してきたばかりの
通る声でさらにからかいながら
中折れをわたしにすっぽりかぶせ
裏の厨へ消えていった
中折れをすてて庭におりたち
従兄弟らと遊ぼうとさがしはじめると
まぶしい地面をついばんではくびを傾げ
鶏があちこちからみていた
「小さくなったなあ」
裏からふたたびきこえ
厨房へまわるとひとかげはなく
すてたばかりのものか別のものか
俎に白く
中折れが潰されていた
        (「帽子病」全行)

 たとえば幼いころ叔父のところに遊びに行ったことを思いだしているところを想像してみる。情景としては、叔父と地面の鶏、従兄弟たち、裏の厨房というところだ。
 まず、1行目は普通「大きくなったなあ」だから、導入部がいきなり屈折したユーモアだといえる。ではどうして、中折れ帽子をかぶるともっと小さくなれるのか、このあたりからは文章の論理を崩す貞久の方法、遊泳感というようなものを作りだしている。文章の整合性を崩すやり方の裏面に、現実の景色と作者の無意識の受け止め方が出ている。主な情景は鶏のいる地面と従兄弟たち、それに一人の人物の存在感は薄れてしまったけれども、中折れ帽を提示した叔父である。
 俎に白く潰されている中折れ帽が「失われた時」、記憶のあり方を表しているといってもいい。
 この詩集は全編引用したような詩の方法をとっているまとまった詩集で、この方法は成功している。この詩のように「過去」を思い起こさせる詩ばかりでもない。ただ、読者はこの「ふわふわ感」が、ではどのような切実さをもって現在訴えているのか、ということを考えるとそれはまた別の見方の文脈でもって客観化することになるだろう。この方法から作者は何か始められる、という感じを与えられた詩集だった。

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