慨嘆への疑問――荒川洋治『渡世』(筑摩書房、1997.7.25刊)

慨嘆への疑問
――荒川洋治『渡世』(筑摩書房、1997.7.25刊)
清水鱗造


 この詩集は「初出一覧」を見ると、1992年から今年にわたっての15編が収録されているが、書き下ろしが5編ある。3分の1が未発表ということになる。
 この詩集の要素は何か? いくつかの言い方で表せるだろう。慨嘆調、という言い方もその一つといっていい。初めの「雀の毛布」という詩の主題は、消えゆく文士という概念、あるいは文壇への慨嘆である。説明といってもいい。

 三十になっても
 家がない、
 遊びに来た雀が
 机を汚したので腹をたて、
 雀をぴしゃりと叩くと雀が死んだ
 かわいそうで泣いたが、
 腹がすいて滋養分をとりたいのでその雀を食べた、
 そういえば今日は母の命日だと思ってまた泣いた、
 という谷活東(明治三七年没)
 のような非業の文士もいた
 こうした陰惨なものは「圧倒」はするが
 失われたほうがいい
 だからやはりボーダーレスが
 いいのかもしれない
 タバコを吸う人に
 禁煙コーナーというボーダーは
 つらいことであるし
 
  このとき谷はまず
  雀に毛布をかけたろうか
           (「雀の毛布」部分)

 荒川の言いたいことはよくわかるが、慨嘆というのはいつもウソくさい場合が多い。文壇というのを定義して、「文章を書く人の商業組合的組織」というのなら今でも曖昧ながらつづいている。《このとき谷はまず/雀に毛布をかけたろうか》という部分が本当の心情なら、これは「石を投げなさい」と詩の登場人物に言わせた、荒川の嫌いな宮沢賢治と同じまっすぐな心象といえる。しかし、だいたい人の集合なんて複雑な力学が働きすぎて、あまり慨嘆する必要なんかないんじゃない、と思う。
 鮎川信夫は文芸家協会に誘われて(推薦者が幾人か要るそうだ)、「いい保険」があること一点において入るかどうか悩んだらしい。でも入らないことにしたのは「どうでもいい」ことの価値が「いい保険」の価値に勝ったのである(註:「いい保険」は自分が必要と感じたのではない。家族のために感じたということ)。
「カリビアの夜」という(とても古い)僕の好きなフェリーニ監督、ジュリエッタ・マシーナ主演の映画で、せっかく持った家(売春を生業として)を結婚詐欺でそれを売ったお金を全部取られてしまう。売春婦(差別用語ではない^_^)を例えば文士として、結婚詐欺者を文壇としてパロディするとけっこう複雑な力学の「一部」が見えてくるような気がする。「汝、パトロンを信ずるべからず、パトロンを疑え」というところだ。逆に積極的に「パトロンを騙し返せ」ということもいえる。たいてい、世の中の仕組みはこうなっていて、文壇ばかりではない。
 ところで「カリビアの夜」の一番美しいところはどこだろうか? 騙された売春婦が失意のまま、泣きながら街を歩くと、夏の夜、そこここで歌や踊りが始まっている、そして彼らは売春婦に呼びかける。売春婦は歩きながら次第に慰められる。そして全部取られたことは、そんなにたいしたことではないのではないか、私は生きて楽しめるんだ、という売春婦の美しい心情、これが「文学」と比喩されてもいい。
 はからずもこの詩集は『渡世』と名付けられている。「渡世」という詩の末尾に、

 お尻にさわる
 は
 佳良な白い
 最後の言葉だ
 暗闇でしばし男のものとなり
 暗闇に消えていく

 この部分は荒川らしいところが出ていると思うが、《日本が残すことのできる言葉は》とまじめに言われると、センチメンタルな心情がに違和感を感じる。
 この詩集は総体的にみて以上のようなことを考えさせる「いい詩集」といえる。個々の言葉の使い方、イメージの使い方、は荒川らしい味が出ているともいえるが、慨嘆調には疑問が残る。

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