ハジラの変遷 ――ワタシのことばの選び方(1)――

ハジラの変遷 ――ワタシのことばの選び方(1)――
大村浩一


*1 ハズカシイとはいかん

 最近マスメディアなどで、ハズカシイことばを平気で使う、一般ピープルや歌詞に戸惑う時が多くなった。
 私の感覚がズレて来たのかなァとか思ったりしたが、評判の良い詩や小説を読むと、やはりハズカシイ言葉は注意深く、抑え気味に選ばれている。どっちかと言えば世間一般のほうが言葉にドンカンになってきているようで、私は危機感を覚えている。もしかして、どういうものがハズカシイのか、分からなくなっているんじゃないだろうか?

 そこで今回は一発、「どういう表現がハズカシイのか」「なぜハズカシイのか」を私なりにテッテ的に確認してみようと思う。

 まず私なりに「ハズカシイ」の、典型的な文例を作ってみようか。
 身近な発表会などで聞く、オバサンの賛辞などはその典型的な例である。悪気は無いんだろうと思うし、ゲージツじゃないからまあ許せちゃうんだけどね。

「私は猛烈に感動いたしました。皆さんの暖かい歓迎一色のなかで、かわいらしい子供達によって、このように美しく、そして楽しい音楽が演奏されて、私は目頭が熱くなるような、そして心あたたまる気持ちがいたしました。どうか、明日の日本の明るい未来にむけて、この有意義な催しが続く事を、心から願いたいと存じております」

 いかがだろう? ビンカンな方はもう、虫の息なんじゃないかと思うが。
 これでピンとこない方は、笹川良一のモーターボート競争のCMのセリフを思い出して頂ければよい。「礼儀正しくしよう」とか言ってることは正義だが、「誰が信用するもんか」と思って聞いているから、ハズカシイものに聞こえるのだ。

 ハズカシイのは、とにかく、ヒジョーに困る。
 なぜならハズカシイのは、私にとっては感動するのにヒジョーに邪魔だからである。「ハズカシイ」とは「感動する」の反対側にある世界である。「ハズカシイ」とは「キモチワルイ、しんじらんない、あっち行け」であり、一刻も早く自分の皮膚からひっぺがしてシューとカビキラーで消毒して深い穴に埋めたいものだからである。
 これに対し「感動する」はどっちかと言えば「ステキー、シビレル、ご一緒してー、今夜は友達の家に泊まるって言って来たのぉ」と、自分の一部にしてくり返し愛撫したくなるものである。
 とにかく、ハズカシイ表現が入っていると、私はジンマシンが出そうになる。途端にスナオに感動できなくなる。スナオに感動出来ないという事は、その言葉なり作品なりの作るイメージ世界に、自分が入っていけないという事である。これは非常にフラストレーションが溜る。
 もちろんニガ笑い程度で我慢出来る時もあるし、「これはこういうもんだ」で受け入れられる場合もあるが、やはりワンクッション入る事は否めない。
 わざとやっているとか、好意で言ってくれていると分かる場合はまだ良いのだが。ゼンゼン感覚せずにカッコ良いと思ってやってる場合だと、それにかかりわずらっている自分が情けない馬鹿のような気がして、我慢できない。少なくとも私はそうだし、身に覚えのある方も少しはおられるのではないだろうか。

 だから現代詩を書き始めた時、まっ先に自分が何をやったかというと、まず手垢のついた表現、口にするとハズカシイ言葉を自分の詩のボキャブラリーから徹底的に追放する事から始めたのだ。「愛」「友情」「感動」「努力」「時間」・・・・
 詩のことばを考える時、私がいつも話題にするのはこうした「禁止語」という概念である。無論、他のどんな大詩人の理論でもない。私が勝手に打ち立てた概念である。
 この選択基準は、どうやらいまだに有効らしい。世間で話題になる優れたものに、こうしたハズカシイ言葉が無感覚に並べたてられている事例は、極く少ないようだからである。


*2 話題アニメに見るハズカシサ

 喜ばしいことに話題のアニメ作品に於いては、ことばの感性は年々洗練され、ハズカシサは年々弱められている。これを例にハズカシサの変遷、感受性の「進化」を説明しよう。
 最新の話題のアニメと言えば、やはりエヴァこと「新世紀エヴァンゲリオン」である。誰が何と言おうが、これがこれほど多くのオトナを突き動かしたのは、いわゆる「臭さ」が本当に減殺されていたからであろう。
 エヴァを見た目からは17年前の「機動戦士ガンダム」は早くも恥ずかしい。タイトルロゴの玩具臭さや、主題歌のセンスの無さなどを見比べるだけでも、エヴァの示す同時代的感受性の圧倒的な鋭さは、すぐに分かってしまう。

 では、なぜそうなってしまったのか。なぜエヴァと見比べた時、ガンダムがハズカシイものになっちゃったのか。
 それは価値観を置かれるもの・思想の歴史的変化にともなう、社会的な神話・信じられていたものの崩壊が原因だろう。
 2つのアニメの間にはソビエトの解体があり、天安門事件があり、湾岸戦争があり、バブル経済の崩壊があった。80年代から90年代とは、それまでかろうじて残っていた最後の「古き良きもの」が、次々と止めをさされていった時代だったのではないか。 ガンダムでまだ信じられていたもの、例えば清廉な民主主義国家とか、新世代の子供たち−新人類による相互不信の克服であるとか、テクノロジーによるユートピアであるとか・・・それらは、その後の現実の歴史によって完膚なきまでに否定された。 政治や官僚の腐敗はもはやディフォルトで、誰も腹の中では信用していない。民衆に対し軍隊は常に弾圧者であり続けた上に、湾岸戦争では狡猾な情報操作の手法まで獲得した。子供たちは学歴社会に抑圧され崩壊した家族にとり残されたままだし、経済成長と繁栄はもはや永続しない。投資に似合わぬ宇宙への夢はかすれ、原発はエネルギー問題の救世主から厄病神に堕ちた。……いかん、文体がカタくなったか。

 ともかく。こうした時代の変化を直視してきた視線で眺めれば、ガンダムがリアリティの土台としていた世界観など、今やお笑い草でしかない事がよく分かるだろう。
 これを認識させられた現時点においては、ガンダムは同時代的なリアリティを失ったと言わざるを得ないのだ。リアリティの土台となる観念が、大ウソだったのだから。その大ウソに踊らされ、物語を真に受けていた自分は、感受性の鈍いハズカシイ存在になり下がる。
 ガンダムがハズカシイ位だから「宇宙戦艦ヤマト」に至っては、もはやハズカシくて直視出来ない。美意識の無いユニフォーム、共同幻想や戦う意味への問題意識の欠如、やられ相手の滑稽さ、主人公必勝の原則に基づく確率の無視、キャラクターの心的成長の乏しさ。執拗にくり返された続編の終わり頃、劇中歌に島倉千代子の演歌を持ち出すほどの若年層の感覚に対する理解力では、ヤマトが滅びたのは当然であった。


*3 ハズカシさの原因

 アニメの事例によって、ハズカシさの原因は大体はっきりしてきた。
 ハズカシイのは、腹の底では誰も信用してない筈の大ウソやタテマエを読まされ、聞かされているからだ。

 リアリティを失った作品や言葉を読まされた時、人はどう感じるか。
「こんなタテマエ、会社で聞かされるだけで沢山だ。こっちは忙しいんだぞ」
「こいつは、テレビのこの程度のウソも見抜けないのか」
「こんな都合のいい女いるわけねーぞ。川崎に女買いに行ってみろ」
「誰でも書くような泣き言ならべやがって、恥ずかしくないのか」
「こんなの読まされるなんて、こいつにバカにされてるみたいだな」

 読者にこう思われたくなければ、書き方を変えなければならない。
 どういう風に? 簡単。
 現実への問題意識を持って書くのだ。タテマエや共同社会に逃げ込み守られたがる自分をさえ疑いながら、自分のホンネを捜しながら。
「一生懸命書いている」なんていうのは言い訳にはならない。
 自分の書いた事がこんな事を読者に思わせていると分かれば、書かないほうがましな事もあると分かってくるだろう。

 さっきのオバサンの挨拶を、泉谷しげる風にホンネで書いてみようか。

「オレはさっきからムカついてしょうがねえよ。ジジイやババアの偽善的なおべっかの後で、ハナたらしてゲームやりたくてしょうがねぇクソガキどものクソ下手なヤノピ聞かされて、いつになったら終わるのかと途方にくれてたぜ。アジア最悪の侵略国家の一員として、世界のヒンシュク買う前にこんなんさっさと止めて、ウチ帰って糞してサケくらって寝ろと、心からねがっちゃってるんだもんね」

 口は悪いが、果たしてどちらの話者のほうが世界への透徹した問題意識を持っているか。一目瞭然であろう。無論、後者だ。

 はっきり言っておこう。
 国家や革命思想や家族、あるいは技術革新や恋愛や宗教など、史実によってその健全さがあからさまにウソだ幻想だ、虚構だと否定されてきたものを、今さら無反省にこれからの思考や表現の基盤・前提にする事はもはや出来ない。それらは今や、誰も信用しないものだ。必死で書いてみてもせいぜい同情か冷笑をもらうがオチだ。
 それを無思慮に続けるなら、その人は史実に対する理解力が無い、ドンカンだと判断され批判されても仕方が無いのだ。
 誰の目から見ても風車なのに、それを竜だと言って立ち向かっていっても、それはドン・キホーテの如く滑稽だろう。それが芝居でなく本気だとすれば、今度はもっと薄気味悪いだろう。知性や理解力があれば、それは起き得ない筈の事なのだから。

 では、何を信じて書けばよいのか。残された立脚点は、自分と現実に対して誠実で孤独な自我。その皮膚感覚と五感・第六感であろう。

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