いえなかったことば

いえなかったことば
阿ト理恵


 おしゃべりなわたしは、ひとりでいる時もなにやらしゃべっている。テレビに向かってつっこみ、うさぎにつっこみ、散歩の時出逢う犬や猫や植物にもつっこむ。ピアノにも本にもどつく。パソコンの前でも紙の前でも、がーがー言っている。人にもつっこんだりぼけたりするが、実は、肝心なことは、実は言っていないような気がする。言っていないというより、言えなくって、もどかしく、じれったく、しかし、ことばがみつからず、あらゆることばを発する日が積み重なり、積み重なれば積み重なる程、わたしの言いたかったことばたちは遠いかなたに逃げてゆく。そして、沈黙が待っている。あふれてしまう自分をコントロールできなくなる。即自的過ぎるからか。かといって対自的であったとしても・・・。どうして、人に対して、ことばはわたしの気持ちどおりに伝わらないのだろう。好きだということばも皮肉にとられることがあり、嫌いだといっても、嫌い嫌いも好きのうちになってしまったりして。結局は、わたしの肉体から離れていったことばは、すでにわたしのことばではなくなるってことなのかしら。受け取った人次第なのだろうか。
 ことばの力は瞬間に消えてゆくものとそうでないものがあり、それは、本人が意識するしないとは関係のないことなのかも。ことばをキャッチした人のなかにどういう形で残るかが問題なのだろうと。だからこそ、いい加減なことばが使えない。伝えたい相手のことをおもいやり、想像して、ことばを選ぶ。愛がある時はいいが、ない時は、はっきりいってしんどい、だから、爆発する、刃物のようなことばを発してしまう。この両極端なことばが、相手をふりまわし、傷つけることに気づいたわたしは、人とのつきあいかたを最近かえようと思っている。どうかわるかわからないが、きっとこのままではいけないような気がしているのだ。感情的な部分だけで接することは危険なのだろうと。特にデジタル文字の場合は、むずかしいなあと。
 わたしのからだを動かして発したなまの声に、空気をふるわせることばに、わたしのことばは生きているような気がする。それでも、ことばは不自由で。言えなかったことばは、癒えなかったことばなのかもしれない。
 NTTのCMコピーじゃないけど、あなたのいえなかったことばたちは、どうしていますか?

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