物語のひと筆書き ――神尾和寿(思潮社、1997.2.25刊)

物語のひと筆書き ――神尾和寿(思潮社、1997.2.25刊)
清水鱗造


 ひとつひとつよくできた散文詩集である。これを読んでいると、粕谷栄市や粒来哲蔵が作った戦後の散文詩の方法がまだまだ息を保っていると感じられる。
 たとえば、方法として短い散文に押し込められるイメージの物語的断絶を封じ込める。それはおおむね不条理な夢のような、時間的空間的断絶である。そして、一カ所ないし数カ所ある映像的飛躍を印象づけるようにする。これが方法だ。
 ところで、不条理を紡ぐ契機は、同時代性のようなものに還元できる。この還元にどのような切実さ、契機があるかによって、衝撃力の質が決まるといっていいかもしれない。その契機のふわふわしているところ、これが現在の状況というものの質なのだろう。一篇引用する。

 武士が、私の家で腹を切るつもりだ。額の
汗を拭いながら、「面目ない」と、しきりに
繰り返す。
 私は、四畳半に筵をパッと敷く。

 末期の水を用意する。白い裃と黒い袴も借
りてくる。
「辞世の句を詠みとうござる」と、私の手を
固く握りしめて、武士は願う。筆と墨と短冊
も買ってくる。

「桜の花が舞わなければ、ハラは掻っ切れま
せぬ」と、口を真一文字にして、武士はじり
じりと迫る。
 私としては、明日のこともあるので、さっ
さと切ってほしい。適当な品があるかどうか、
電話で花屋に問い合わせる。

 武士が、艶のない腹に短刀を突き立てた。
それから、アルファベットを描くようにして、
自ら傷口を広げていく。
 ぜいぜいと咳きこみながら、「介錯を」と、
洩らす。なるほど、これが虫の息というやつ
か。

 武士の首は、庭先に穴を掘って埋める。辞
世の句を書いた短冊は、タンスのなかに仕舞
う。血にまみれた筵については、これはもう
捨てるしかないだろう。一つ一つのものを片
付けながら、武士はちょっと威張りすぎてい
たのではないかと思う。
             (〈介錯をする〉全行)

 事は深刻なのに、ふわふわしたものを感じさせる。〈あとがき〉で《現実にこのような夢を見たわけでは全然ない》と書いているが、ふわふわさせながら、断絶するには、夢の結構がちょうど似合うのだ。初出は連作「ふたつの夢」と題されていたらしい。
 実はイメージの断絶に重い主題をかぶせることは可能だし、実際重いものをかぶせた類似の散文詩を書いている詩人もいた。だから、こういううがった見方もできる。――いまは切実なイメージの断絶は不可能なのだ。しかし、また個人史の軸からみれば、神尾が重い主題をこの方法で書くことも可能であることは確かなのである。
 切腹した武士に対して神尾はさばさばした冷淡さで接する。事務手続きを終えるようにしての感想も、ドライですっきりさせようとする結末だ。本来、波長に山のある物語を、もうそんなことはどうでもいい、という感じで自分の感性に広げてみせる。全篇に広がるこの雰囲気と個々の詩の完成度は、優れた詩集を構成しているといえる。興味はこの方法自体をどのように神尾がこれから破壊・再編していくかにいく。

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