寡黙な詩群 ――吉田加南子『波 波 波』(思潮社、1996.11.20刊)

寡黙な詩群 ――吉田加南子『波 波 波』(思潮社、1996.11.20刊)
清水鱗造


『デュブーシェ詩集』を訳詩集として出している吉田は、一種の寡黙体というような詩を書いている。この詩集は、1行ないし、2行の詩ないしアステリスクで区切られた一連の短い詩が続く。多い行にまとまる詩はない。題はほとんど「波」で、少し「影」、「恋」、「さかな」があるだけだ。



わたしから放たれる光


わたしは戻ってこないために

 上の詩のように行間は1行ないし2行とってある。一般的に寡黙な詩は、寡黙に抑えるなにものかがあると感じさせるが、この詩集の場合、そういう事情でもなさそうだ。もっと緩やかなものが流れている。「さかな」が「波」の中にひとつだけあるのは、詩集の構成としてうまい。僕は、次のような女言葉が出てくる詩に立ち止まる。

波でいる

って

波でいられなくなることね

空になるの

 すぐ、吉原幸子の詩を思いだすのだけれど、吉原の女言葉は緊張に包まれている。自分の女の中で巡る緊張というようなものだ。吉田の詩の女言葉はこれに対して、まっすぐなヘテロセクシャルな、それでも淡いエロチシズムがある。どこか優しい淡いもの、これはどこかへ崩れ去っていくような予感を孕むものだけれど、吉田の詩にそれが感じられないのは、日常のリズムに沿ったような方法論があるからだろう。吉原幸子の「叫び」に似た言葉には圧倒されるときがある。それに対して吉田の詩は、日なたの水たまりのようにのどかな要素がある。
 
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