同人誌撲滅論への反論

同人誌撲滅論への反論
阿ト理恵


 同人誌「μ」NO.5、「同人誌撲滅論」横木徳久氏のコラムを読んで、考えさせられた。もうずいぶん前にこのコラムを書き、自分の次の個人誌に載せようと思っていたのだが、ここにもアップすることにした。ここの方が、より多くの人に読んでもらえるだろうから。

《まず誤解のないようにいっておくが、私は日々送られてくる同人誌の類を迷惑だと思ったことは一度もなく、むしろ帰宅時に郵便受けを覗くのをとりわけ楽しみにしている。(略)お互い「詩に感心がある」という一点だけは共通しているはずであり、それが最低限のコミュニケーションを成立させうるものであろう。にもかかわらず、たやすく期待が裏切られるのは、同人誌の大部分の書き手たちが「詩に感心がある」とは思えない態度を図々しくも晒しつづけているからにほかならない。(略)
新作の動向に興味があり、同人誌から素直な意見や情報を得たいと望んでいる。(略)
最近の詩集をどのように受けとめているのか、あるいは若手詩人たちの作品や言説をどのように捉えているのか、(略)聞きたいこと知りたいことが山ほどある。にもかかわらず、同人誌の大部分の書き手たちは、そういうことには全く触れない。それどころか、彼らが載せているコラムの類は、庭に花が咲いたとか、どこに旅行したとか、子供や家族との思い出話ばかりで、ほとんど馬鹿としか言いようがない。ようするにあなたたちは「詩に関心がある」のではなく、ただ自分自身にしか関心がないオタク以下の連中である。
(略)
同人誌を手にしたら、まず、コラムの類を眺めて「詩に関心がある」と思えない書き手がいたら、その詩作品は一切読まないことにしよう。そうして、詩を書くものとしての最低限のアンテナを持とうとしない同人誌を徹底的に撲滅しようではないか。》

 読みながら、自分の個人詩誌のことを思いだしていた。やばい、自分のことだと。わたしは、間違いなく「詩に関心がある」。しかし、今のところ、横木氏からは無視される詩誌を発行している。詩を読むのが好きで、好きな詩を書く詩人にあこがれて、大胆にも自分で書くようにもなり、投稿するようになり、私家版詩集をつくり、揚げ句は個人詩誌まで出して、好き以外のなにものでもない。関心がないわけがない。新人の詩が気にならないわけがない。先輩方の詩が気にならないわけがない。だから、知りたい、読みたい。しかし、金もないこともあるが、本が簡単に手に入らぬ。(現在は東京近郊に住んでいるからいいが)地方に住んでいる場合、ま
ず絶対といっていいくらい、詩集なぞ売っていない。本屋にはない。詩手帖などで知った詩集を予約で買うしかないのだ。あるいは、図書館でリクエスト。手に取って、本の感触や匂い、ちらっと試食することすらできないスリルのあるリスクの高い購入方法しかないのだ。しかも、どちらも、時間がかかる。へたすると1ケ月後だ。それから、読んで、感想を書いていたら、もう次の気になる詩集がでている。たとえ、それらの評を詩誌に載せても、時間的なズレの懸念がある。きっと、先輩詩人たちは、それらの、詩集をいただけたりする恵まれた環境だろう。わたしのように新人とも言ってもらえないものは、自力で探して、読まなければならない。別に、与えられるものに対して、うらやましいとは思ってはいない。話はそれるが、詩集や詩誌を無料であげたりもらったりすることが実は、とても気になっている。わたしも、少しだけ、交流があるので、いただくことがあるのだが、「謹呈  著者」というしおりが挟まっていると恐縮してしまう。先輩詩人たちは、どうなのだろう。どう思っているのだろう。
 話を戻すが、金銭的理由、住んでいる場所の理由、時間的ズレの理由などから、詩集や詩誌を読めない人が多いのではないかと思う。読まないのではなく。
 庭に花が咲いたとか、家族のことなどの身辺雑記について、わたしも載せているが、載っている詩誌が好きだ。もちろん、詩がメインだ。そして、詩についてのコラムも、大事だと思う。けれど、わたしは、例えば、その詩がいいなあって思った時、その詩を書いた人に関心がいく。どんな人なんだろうと。できたら、逢ってみたいとさえ思う。そう思うのはわたしだけだろうか。わたしがミーハーなだけなのだろうか。詩に関心があるということは、こういうことも含まれているように思うが、どうなんだろう。
 そもそも、詩誌は、誰に読んでもらうために発行されているのだろうか。わたしは、あこがれている詩人に読んでもらいたいこともあるが、詩を書かないともだちにも読んでもらいたいと思っている。詩を書かないけど、詩が好きな人はもちろん、詩を書かない、詩も好きじゃない人にも、読んでもらって、詩を好きになってもらいたいと大それたことを願っている。だから、やわらかい部分も必要だと思っている。手紙のような、詩の周辺の種のようなもの、それは、やはり、書き手がどんなことを感じてどんな生活をしているんだろうかっていうことだと思う。どんな詩集や本を読んでいるか、どんな音楽を聴いているか、どんな映画やテレビを観ているか、どんな経験や体験をしているのか、知りたい。それが詩になるのだから、ほんとは、詩を読むだけでいいのかもしれない。けれど、読手がなにを求めているか判らないから、わたしは、できる限り、たくさんの情報を発信したい。発信されたい。自分自身にしか関心がないオタク以下から、そういう小さなところから、発信する大事なこともあると思う。ささやかなことかもしれないけど。だから、わたしは、横木氏が撲滅しようとしている詩誌を読むと思う。詩に関心があるから、詩を書いている人にも関心があるのだ。
 ただ、わたしは、横木氏のような先輩詩人に読んでもらえないどころか、無視されるのは、哀しいし、悔しいから、話題からズレて遅れても、詩の評なども書いて個人詩誌に載せてゆこうと思っている。もちろん、お馬鹿な身辺雑記も書くつもりだ。しかし、詩で勝負することが一番だから、ミイラにならないようにしなくては。

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