ウェールズ独立600年祝祭の動き(1)
(前頁より)
1399年9月29日、32歳のヘンリー・ボリンブロクが王位に就いて
「ヘンリー四世」を名乗った。
王位継承権では5代目マーチ伯エドマンド・モーティマーが上位で
あったが8歳であったので、ヘンリー・ボリンブロクが強引に議会の
承認を得て王位についた。
自分の息子ハルを皇太子(プリンス・オブ・ウェールズ)に任命した。
まだリチャード二世は存命であった。ヘンリー四世は王位簒奪者と
して汚名を後世に残した。
その間リチャード二世はロンドン塔から、ケントのリーズ城、ランカス
ターのピカリング城、ヨーク西方ナーズバラ城、さらにヨーク南西の
ポンティフラクト城と転々引き回され幽閉されていた。
リチャード二世は1400年2月14日、ポンティフラクト城で餓死した。
33歳の若さであった。
領地へ帰ったオウェン・グレンドワーは、領土が隣地のグレイ侯に
大きく蚕食されていることを発見した。早速宮廷の議会に異議を申請
したが、却下され、彼の領土の一部が正式にグレイ侯の物になった。
おりしも、リチャード二世虐待死の報が届いた。
オウェン・グレンドワーはヘンリー四世の仕打ちに我慢できなかった。
1400年夏、36歳のオウェンは決断した。
(続く)
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