ウェールズ独立600年祝祭の動き(2)


1400年9月16日、オウェン・グレンドワーは大胆な宣言をした。

「ウェールズ最後の皇太子であったリューウェリンの血をひく自分
が、本来のウェールズ皇太子(Prince of Wales)に就任する。
以後イングランドの法律には一切従がわない」

まさにイングランド王の圧制からの独立宣言であった。

オウェンは馳せ参じた部下を率いて、まず隣地の領主グレイ侯の
住むラシン(Ruthin)の町を攻撃し、焼き払い、勢いに乗じてイング
ランド国境を越えてオズウェストリ(Oswestry)やいくつかの城砦を
占領した。

多くのウェールズ人が彼の軍旗の下に集まった。
ラシンのほかにウェールズ国内のイングランド軍の拠点であった
ハワーデン(Hawarden)やコンウェイ(Conway)などの城を落とした。



当時イングランドはフランスとの間で、百年戦争を続けていた上、
スコットランドとも国境紛争を続けていた。
ヘンリー四世は王位簒奪をした為に、国内の貴族の反乱も恐れ
ていたが、ウェールズのオウェン・グレンドワーの反抗は、イング
ランドの一大事であった。

ヘンリー王は直ちにウェールズ征討の大軍を組織し、三度にわ
たり派遣するが、いずれもオウェン・グレンドワーのウェールズ軍
に破れた。

なかでも1402年7月の戦いでは、指揮官のエドマンド・モーチマ
ー卿がオウェン・グレンドワーの捕虜になった。
エドマンド・モーチマー卿は、同名のマーチ伯エドマンド・モーチマ
ーの叔父になる。

マーチ伯エドマンド・モーチマーは、本来王位継承権がヘンリー
四世より上位にあったが幼少であったこともあり、ヘンリーには無
視されていた。
さはさりながら、ウェールズにとってはイングランド王位継承権者
の叔父になるエドマンド・モーチマー卿を捕虜にして、士気大い
に高まった。


余談になるがシェイクスピアは史劇「ヘンリー四世」で、マーチ伯
エドマンド・モーチマーが捕虜になったように書いているが、叔父
エドマンド・モーチマー卿の間違いである。
シェイクスピアが史実を間違ったのか、芝居の都合で同名の二人
を一人に合作したのか、シェイクスピア本人以外には分からない。
史劇と史実は異なることもあるので、ちょっと書き足した。

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