旅に出るたびに古書店を探し、買い集めた明治の俳書です。東京のものは震災と戦災でほとんど焼かれ、人気も
ないので処分もされ、市場にはほとんど出回りません。どなたかお譲り下さる方をご紹介ください。
東京市京橋区木挽町の初音会より発行された滑稽系(そういうジャンルがあったとして)の文芸誌。
写真は明治23年7月刊の創刊号で「第一聲」というのが洒落ている。
「初音会の定規」には、詩文、和歌、俳句、狂句、狂詩、端唄、情歌(どどいつ)、変調(かえうた)、
流行歌(はやりうた)、演劇脚本(しばいすじがき)、浄瑠璃、小説、古今の雅人通客及諸芸に堪能た
る人の伝記其外あらゆる奇文珍説等を掲げるとある。
問題は、そこにある「俳句」の2文字。明治23年7月と言えば、子規はちょうど第一高等中学高を卒
業したところ。まだ「俳句」を世に問うてなどいなかった。
しかもこの雑誌の「俳句」の選者は、あの悪名高き点取俳諧の帝王、夜雪庵金羅宗匠なのである。
つまり、「俳句」という言葉は、子規が登場するころ、すでに庶民の一般的な語彙となっていた。しか
もそれは点取俳諧の世界の言葉だった。だから、子規が俳諧を「俳句」と呼び始めたというのはまったく
の俗説である(すでに三森幹雄が使っていたという指摘もある)。
秋尾蔵
もうひとつ、この雑誌で面白いのが、この創刊号の序文。
「文学の本領」という題で、要するに「情歌(どどいつ)だって文学だ!」と主張している。
その理由が、俳句や狂句だって人の役に立ってるじゃないか、どどいつだって、ということ。
形式で差別するな、中身が問題なんだ、という主張には一理も二理もある。
秋尾蔵
帰雪会の当番、宮坂活坊という人が、集まった句を浄書し、阿心庵雪人宗匠へ届けたものを、雪人が朱を
入れ、返したもの。宗匠が、自分の名の「先生」を消して「下」と書き、相手の名に「上」と朱書している。
明治の人らしい律儀さと合理性である。
秋尾蔵
下は上記の最初のページで、3句目の「酒の香の庵に満ちたり三ケ日」が「川」に丸となっている。
また最後は「戦勝の陣に酒あり三ケ日」で、他のページにも「戦地より父のたよりや三ケ日」とか
「聖戦や砲声きかぬ三ケ日」などが頻出するので、おそらく日清戦争中の明治28年の正月の稿では
ないかと予想される。
秋尾蔵
これが有名な三森幹雄の「俳諧明倫雑誌」である。写真は明治16年の6月号。
つまり、子規が上京した月のもの。
秋尾蔵
東京市京橋区八丁堀の萬文堂から発行されていた滑稽系の文芸誌で、俳諧のみならず、
都々逸、狂句、狂体発句、狂歌、果ては三題噺にいたるまで募集している。毎号表紙が変
わり、色刷りで美しい。写真は明治24年7月発行の第7巻。
秋尾蔵
秋尾蔵
いつのものか不明。おそらく明治20年前後のものだろう。この手はほんとうにたくさんあったはずで、
国立国会図書館には、「奉納句集」と題されて、二百件ほどの資料が保存されている。