三人の顔

三人の顔

 イラクで解放された三人の姿をニュースで見た。ついさっき、さらに二人の顔も。勇気のある人がいるものだと思った。考えてもみたまえ。誘拐事件などなくとも、つねに生命の危険のある地域で、自らの信念のため、あるいは使命のため、職務のために活動しているのだ。あのような事件にあわなくとも、傷ついたり、はては命を失うとも限らないのだ。

 もちろん、そのような人たちがいることは知っていた。そして、生命を失った人たちがいたことも知っていた。今までも、そしてこれからも、そうやって活動する人たちがいるのだ。しかし、生々しく報じられた映像を目の当たりにして、そのような人たちの存在をいっそう強く感じた。

 かつて、キャパの写真を初めて見たとき、強烈なメッセージに驚いた。そして、そのような写真を撮ることの危険さに思い当たって、あらためて驚いた。なぜ、そうまでして撮らねばならなかったのか。知識としては理解したつもりだった。しかし、この同時代の事件に遭って、その恐ろしさにあらためて驚いた。

 多分、私と考えを同じくする人とは限るまい。信念も理想も異にするかもしれない。人格者とも限るまい。いやそれどころか、危険を冒してあれほどの行動ができる人たちだ。おそらくは欠点も並大抵ではあるまい。残してきた軋轢も尋常ではあるまい。それでなくては、命を危険にさらしてまでの行動はとれまい。

 しかし、私はこの人たちを好ましく思う。危険を冒して奉仕しようとする人たちを。真実を伝えようとする人たちを。よりよい世界のために働こうとする人たちを。

 彼らの負の側面など、どれほどのことがあろうか。こうして安全な場所にいる私。ごく普通の生活を送っている私。その私だって、人から非難されるようなことは一つや二つでは済まない。自分で気づいているだけでも、それよりももっともっと多い。気づかずにいる分は、さらに多いだろう。あやうく非難されそうな行動にいたっては数え切れないだろう。1:30:300の法則というそうだ。

 私は彼らの行動を非難しない。彼らはそうしなければならなかったのだ。人質にとろうとする勢力がいなくても、危険は充分に大きかったのだ。それを承知で行動していたのだ。彼らだけではない。イラクだけではない。世界中の紛争地域にそういう人たちが活動しているのだ。そして、このような事件の後も活動し続けるだろう。

 彼らが危難に陥ったとき、それを救うのに躊躇したくない。もちろん私は、そのために自らを危険にさらすほどの勇気は無い。しかし、いや、それだからこそ手を惜しみたくない。さもなくば、私は恥辱にまみれた自らを非難しなければならないだろう。

APR/2004