荒れ野の四十年

荒れ野の四十年

「荒れ野の四十年」という演説のことをご存知でしょうか。ドイツ大統領だったヴァイツゼッカーさんが、ドイツ敗戦四十年目の年(1985年)に行った演説です。当時、岩波ブックレットに掲載され、あちこちに引用されていたので、お読みになった方も多いと思ます。

 この演説の中で私の心に残っているのは「過去に目を閉じる者は、結局のところ現在に対して盲目になる」という言葉です。なぜ私たちは過去を見すえなければならないのでしょう。いくら過去について論じても、過去を変えることはできません。私たちが共にしなかった時代に対して、何ができるのでしょうか。

 過去に対して為しうることとは何なのでしょう。私達は歴史として学ぶことができます。誇りをもって振りかえることもできるでしょう。悔悟の念をもって語ることも、そして、批判することもできるでしょう。それを為すことによって、何が得られるのでしょうか。

 過去を変えることはできませんが、今を変えることはできるかもしれません。おそらくは未来を変えることも可能でしょう。そして、もしできるのなら、少しでも良い方へ変えたいものです。過去にあった不幸や暴力、悲惨なできごとが繰り返されることがないようにと思います。

 過去をいかに深く学んでも、そして、肯定や批判を行っても、あるいは賞賛や悔悟の念を抱いても、すでに起こったことを改変することはできません。しかし、現在を変えたいとしたら、未来を変えたいとしたら、どうすれば良いのでしょうか。

 私たちはどのような世界を望むのか、どのような社会に生きたいのか。私たちと同じように、過去においても不幸や苦難、破滅を人々が望んだことはないと思います。むしろ、そのようなことを避けようとして様々なことが起こりました。良いこともありましたが、多くの悪いことがありました。

 多くのことが、幸福のため、平和のため、自衛のため、あるいは名誉のために為されました。一部の悪意ある人々はそうでなかったかもしれませんが、大多数の人はそのように信じていたことでしょう。そして、良くないことが起りはじめたとき、故意に、あるいは無意識に目を閉ざしてしまったのではないでしょうか。

 批判することはやさしいことです。あなたはなぜそれに目を閉ざしたのか。故意か無意識かにかかわらず、大多数の人の目にはそれは映らなかったとすれば、それはなぜだったのでしょうか。

 おそらくは私たちも多くのことがらに目を閉ざしていることでしょう。故意か無意識かにかかわらず。故意に目を閉ざすことが何をもたらすのか。目に映らないことに気づくにはどうすれば良いのか。過去に目を開くことこそが、その鍵ではないでしょうか。

 過去に起った不幸なできごと。どうしてそんなことになってしまったのか。人々がそう望んだわけではないでしょう。望まなかったけれども、他に道がなかったからでしょうか。あるいは、その時代においてはやむを得ないことだったのかもしれません。

 かりに過去にはやむを得ないことだったとしても、今もそれはやむを得ないことなのでしょうか。大きな不幸や苦難、破滅への道が繰り返されても、それはやむを得ないのでしょうか。

 そんなことはないはずです。そのようなできごとを繰り返さないために、私たちは過去に学び、思いを深くしなければならないのではないでしょうか。過去の事情がどうであれ、今、それを繰り返してはならないなら、私たちは現在の視点で過去に目を開かなければなりません。なぜなら、私たちは今をなんとかしていかなければならないからです。

 現在における私たちの考えや行動の拠り所を見出すために、目を開き、考え、判断するのです。それはおのずから現在の視点で為されねばなりません。さもなければ、いかに学んだとしても、あの時代はそうだったのだ、で終ってしまいます。

 現在から見れば過去は多くの批判すべきところがあるでしょう。同様に、未来から見れば現在も多くの批判をまぬがれえないでしょう。そして、私たちは未来からの批判に耐えられる判断と行動を求められているのではないでしょうか。とりわけ、過去の不幸を繰り返さないことを。

 過去を「私たちのあるべき姿はなにか」という視点で見直すこと、そして現在に対して「将来の人々はどう見るだろうか」という視点を持つこと。過去に目を閉ざさないとはそういうことではないかと思います。

SEP/2003