横浜事件のこと

横浜事件のこと

 横浜事件の再審の開始が認められたというニュースを見ました[2003年4月]。横浜事件というのは終戦直前にあった治安維持法違反事件です。文学や出版ととても関係の深い事件でした。この事件の再審請求については、なんども新聞報道されているので、ご存じの人も多いと思います。

 治安維持法違反ですから、有罪判決を受けた被告の方々を犯罪者とみなす人は、もはやいないでしょう。しかし、再審請求の経緯はとても複雑です。

 当初は事実誤認による冤罪という請求でしたが、裁判記録が焼失しているために事実を確認できないとして棄却されてしまいました。事実の確認ができなければ法は無力です。

 そこで、事実関係を争うのは断念し、有罪判決がポツダム宣言受諾後だったことから、治安維持法が無効だったという主張に切換え、それが認められて再審開始となりました。すなわち、ポツダム宣言の受諾により思想の自由が認められたのだから、それに反する治安維持法は無効となっていたというのが、今回の決定です。

 非常にもっともな決定に見えますが、実はそうではありませんでした。この決定に対して、検察が即時抗告していることからも想像できるように、長い論争があったようです。治安維持法がポツダム宣言で無効になっていたという主張さえも、憲法学者の鑑定の上に認められたのだそうです。

 また、再審制度が適用できるかどうかということも争われました。実は、再審制度がこのようなケースに適用できるかどうかは明文化されていないようなのです。しかし、裁判所の判断は「もしも適用できないとすれば、このような人々を救済する手段が閉ざされてしまう」というものだったそうです。

 この事例をみると、三つの問題点が浮かび上がってきます。一つめは、記録の焼失という、被告の責任でないことが原因であっても、事実確認ができなければ法は何もできないということ。二つめは、有罪の根拠となった法の有効性すら容易にはわからないことがあるということ。最後に、再審制度が適用できるかどうかも法を読んだだけでは判断が難しいということ。

 今回の裁判所の判断には私は大きな拍手を送りますが、本当に法とは難しいものだと思いました。法によって裁くという自明なことの難しさをあらためて考えさせられました。

 以前に「植松 正先生のこと」と題した小文を掲載しましたが、あの植松先生なら何とおっしゃるかなと考えました。先生のバックボーンとなっているのは、法はごく僅かなことしか定めていない、それは必要最低限にすら満たないから、法にのみ頼ってはいけないというものでした。

 この考え方については私も同じなのに、それから導かれる結論はどうにも納得できないことがほとんどだったという、尊敬すべくも困った先生でしたが、この決定については賛成されるような気がします。特に「もしも適用できないとすれば、このような人々を救済する手段が閉ざされてしまう」というところは、大いに頷かれるように思いました。

 今回の再審開始決定を聞いて、法とは何のためにあるのか、我々は何のために法という制度を作ったのかということを、常に心においておかねばならないと感じました。天網恢恢疎にして漏らさずという言葉がありますが、人の作った網は漏らすことも過ぎること多い、ということでしょうか。

APR/2003