植松 正先生のこと

植松 正先生のこと

 在外被爆者訴訟の大阪高裁判決に対し、国は控訴せず敗訴が決定しました[2002年12月]。ハンセン病訴訟判決の控訴断念に続いて、何か大きな流れを感じさせるできごとだと思います。いずれのケースにも共通するのは、法的には誤ったところはないのだから控訴すべきであるという行政側の意見を抑えての判断だということです。

 これらの報道を読みながら、私は植松 正先生のことを思い出していました。植松先生と言ってもご存知ない方の方が多いかもしれません。あるいは、尊厳死協会の会長だったといえば思い当たるかたもいらっしゃるでしょう(注)。先生は一橋大学で刑法を専門とする学者で、私が子供の頃、週刊ダイヤモンドという経済雑誌に連載記事を持っていました。先生の主張は保守的な方で、私には肯定しかねるものがほとんどでした。しかし、先生の物事に対する姿勢、基本的な考え方については敬服するところがあり、今も先生と呼ぶことをためらいません。

 子供の私がなぜ経済雑誌などを読んでいたかというと、楽しみの少ない田舎では父親がとっていた雑誌がかけがえのないものだったのです。そうして毎週のように読んだ先生の連載の中に、深く心に残っている言葉があります。それは「法は道徳の最低線である」というものです。たしか、欧米の著名な学者の言葉として紹介されていました。道徳という訳語は適切ではないかもしれませんが、大意は次のようなものでした。

「法というのはそれを守っていれば十分であるとか、それに反しなければ良いというものではない。なぜなら法に書かれているのは、我々の社会に必要なことがらの、ほんのわずかの部分に過ぎないからだ。十分条件はおろか必要条件すら満たしていない。しかし、それは法が不完全だということではない。法とは我々の文明とか社会の長い歴史の中で、こうすればうまく行く、あるいはこういうことはしてはいけないという、大多数の人が合意できることだけを明文化したものだからだ。そういう意味において、法とは道徳の最低線ということができる。道徳の最低線だけにしたがっていては、社会がうまく行かないのは自明である」

 道徳という言葉がいかにも先生らしいのですが、どういうわけでこのような記事を書かれたのかというと、当時は公害問題をはじめとする企業悪を糾弾する声が高まりをみせていました。あるいは先鋭化する学生運動、公共事業と個人の利益の対立など、それまでの社会の枠組みの揺らぎが誰の目にも明らかになりつつありました。当然ながら、それらの矛盾を解消する、あるいは規制する手段としてさまざまな法規制を求める声が、いずれの立場の側からも沸き起こっていました。少し大げさな表現を許していただけるなら、それぞれが、自分に対立する側の行動にことごとく法の網をかぶせようとしているかのような有り様でした。

 先生としては、このような動きに対して、刑法学者の立場から法の役割と限界を説かれたのだと思います。「法は道徳の最低線」論は、規制の少ない自由な社会に通じるものです。しかしながら、先生の主張は革新側や市民運動に辛辣な傾向があったのが私には不満でした。

 あまりにもラジカルな運動はさておいても、当時、大問題となっていた公害とそれによる健康被害、環境破壊の経過をたどると、法は道徳の最低線にとどまってはいけない場合があることは明らかです。あのような大きな被害が現実に起こってしまった時には、それを直ちに取りのぞくために行動を起こさなければならないわけで、その裏づけとなる法を急がねばならないでしょう。

 しかし、このようなケースはそう多くはありません。原因が明確でないだけでなく、立場によって異なった見解があり、絡み合う利害があって、「このようにせよ」「これはしてはならない」と規定することが難しいのが現実の社会です。しかし、難しいから放置しておいて良いかというと、そうではありません。現実に苦しんでいる人がいるのなら、なんとかしなくてはなりません。

 このような場合に私たちがしなければならないことは、苦しんでいる人を救うことです。そして、その救済について社会の合意を得ることです。法に従った手段で救うことができるのなら、それに越したことはありません。それができないのなら、「救う」という目的を優先することについて社会の合意を得るように努めねばならないと思います。

 おそらく植松先生がおっしゃったのは、こういうことだったのだと思います。法に従わねばならないことはいうまでもない。しかし、法は「最低線」以上のものは何も保証していない。また、「最低線」を越えた法は時として不都合をもたらす。それを乗り越えるのが私たちの知恵だよ、と。

(注)植松先生をネットで検索したら、1999年にお亡くなりでした。

DEC/2002